サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【タイホされる桃太郎】

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師走に入り、時の流れは加速度的に速くなっている。立つ力を失った落葉は、またいつか咲く花のための肥やしになるのだろうと、そんなことを考えながらわざと音のなる葉の上を歩いたりなどする季節である。

 

さて、私は(誰もそんなことは気にも留めないし、そもそも誰の目にも触れていないが)このブログを書くにあたり、できる限りジャンルが被らないようにと心がけている。サイエンスの話があればそれと同じだけカルチャーがあり、アートがあるように心がけている。それでもやはり、自分の本領というのは1番愛好してしまうもので、どうしてもサイエンスに偏りがちである。

 

しかしながら、私はもともと法律家を目指していた。法も物理同様、哲学から伸びる論理の枝葉なので、今でも趣味的に読んだりする。

 

 

前置きが長くなってしまったが、今回は六法全書を片側に置いて桃太郎を読んだらどうなるか、という思考実験である。(この話にオチはなく、完全な自己満足と承認欲求のみによって構成されていることを前提に読んでほしい)

 また、先に断っておくが、私は法律家でもその卵でもない。ただ法律を言葉の玩具として遊んでいるに過ぎない。したがって、法解釈の間違い、観念的競合等は度外視していただきたい。

 

 

さてさて、それではおとぎの世界へ…

 

 

『タイホされる桃太郎』

むかーしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。(まだ合法)

 

おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。(水質汚濁防止法による規制施設を通さない排出)

 

おばあさんが川で洗濯していると桃が流れてきました。おばあさんはそれを家に持って帰りました。(占有離脱物横領罪)

 

持ち帰った桃を割ると、なんと中から元気な男の子が生まれました。おじいさんとおばあさんはその子を桃太郎と名付けて育てました。(戸籍法第49条、52条における出生届書の未提出、3万円以下の過料)

 

桃太郎は元気に育ったものの、一日中、村で悪さをしていました。(学校教育法第91条、教育義務の放棄、10万円以下の罰金)

 

おじいさんとおばあさんは桃太郎を鬼退治に向かわせることにしました。(殺人教唆)

 

桃太郎は旅の途中で犬、猿、キジと出会い、お供にしました。(新鳥獣保護法における不許可捕獲、キジは特定鳥獣)

 

桃太郎は船で鬼ヶ島へ向かいました。(小型船舶の登録等に関する法律、船舶の登録番号等の不打刻、1年以下の懲役または30万円以下の罰金)

 

鬼ヶ島に着いた桃太郎は3匹のお供を連れて鬼と戦いました。(動物愛護法第44条、100万円以下の罰金)

 

鬼を退治した桃太郎は、鬼の持っていた金品を村へ持ち帰りました。(強盗致死傷、死刑または無期懲役無期懲役または6年以上の懲役)

 

めでたしめでたし

 

 

とんでもない物語だ。夢がない。こんなお話を聞かせたら子供達はどうなるだろう。(私のように卑屈な性格になってしまう)

ちなみに、税関を通さない不開港への入港、輸入は関税法で禁止されている。

 

 

こんな思考実験から学べることなどほとんど皆無である。(先に述べたようにこの話にはオチがない)

しかしながら、絞りかすのようなこの話から無理やり何かを見通すとすれば、それは科学とヒトの決定的な差異だろう。

サイエンスの世界では、100年前に正しかったことは今も正しい。(理論のパラダイムは変わるかもしれないが、実験データは嘘をつかない)

けれども、ヒトの世界では、100年前の常識が今の非常識になりえるのだ。それは法律だけに限ったことでなく、言葉もマナーも人間関係だってそうかもしれない。

 

そういう変わりゆく世界の中で我々は生きている。それはとても難しいことだ。極論すれば昨日までの模範解答が今朝起きれば0点になっていることだってあるのだから。

 

それでも私たちは(まるで信じられる支柱のない世界で)生きていかなければならない。稀代の哲学者たちはそういう不透明な世界から本当に信じられるものを見つけ出そうとした。

もしかすると、私たちだって、飾らない日常の中にそういう、"変わらないもの"を探し続けているのかもしれない。タイホされなかった桃太郎の人生と、タイホされる桃太郎の人生の中に共通の何かを見出そうとしているのかもしれない。

私は科学の道にいる人間だが、それでも人文学の目指す変わらないものを信じたいと思ったりしている。

 

 

あまりにも長く、とりとめのない文章になってしまった。年末にかけて多忙を極める中、体調には気をつけて。

 

【紅葉と感動するミドリムシ】

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ねっとりとした残暑はもう、遠い昔のようである。秋風は空天井をぐいっと押し上げて、青空はとても高く、その向こうの宇宙を思わせる透明感で持って秋を盛り立てる。

 

さて、またまた日にちが開いてしまった。無意味な弁明をしておくと、これは私の生活特有のもので、毎年10月の後半から11月の前半は躁鬱的になってしまうのである。まあしかし、それももう終わりに近づいて、あとはクリスマスとお正月を待つのみである。

 

 

 

今回は秋の紅葉とミドリムシのお話である。誇大妄想癖に拍車をかけていこう。

 

先日私は紅葉狩りに京都へ出かけた。同伴者は生物系の人であったので、無論話は"どうして葉は赤黄色になるのか"という話題にもなる。私は植物などについては本当に門外漢なので、聞き役に回るのだが、非常に面白い話であった。

 

具体的な内容は割愛するが、興味のある方は調べると良いと思う。私が面白いと感じたのは、"紅葉"という文学的で情緒的な現象が、生物学のメガネを通して見ると如何にロジカルか、という部分である。その論理は非常に洗練されていて、抜け目なく美しい。頰を赤らめる木々の真意はとても論理的で冷淡なのかもしれない。

 

 

他方、学会帰りの指導教員に興味深い研究を聞いた。簡潔に述べると、ミドリムシが強い磁場の空間内で磁場の方向へと動くというものである。これはミドリムシの細胞壁に存在する分子の配向性に起因する現象で、物理化学的にはさほど複雑ではないようだ。

 

否しかし、強い磁場の箱に入れられたミドリムシはどんな気持ちなのだろう。私だって時には(それはとても短い時間だけれど)他者の気持ちを考えることだってあるのだ。

ミドリムシは苦しいのだろうか。本当は動きたくないのに(それはまるで冬の朝の毛布の中のような)無理矢理に動かされているのかもしれない。

しかし、こういう想像もできる。つまり、ミドリムシは自分の意思で動きたいから動いている(とミドリムシは思っている)ということだ。それは私たちが美しい景色を求めたり、暖かい陽だまりを求めたりするのと同じように、そこに何か求めたいものがあると(ミドリムシは思っている)のかもしれない。彼らは何かに感動するために箱の中を泳ぐと(ミドリムシは思っている)のかもしれない。

 

 

多くの人が、自己の意思について議論を重ねてきた。それは難しい話ではなくて、どうして私はカレーうどんを食べるんだろうか。とかどうしてボクはキミのことが好きなんだろうか。とか…。

それは神様とか自然科学が決めることなんだろうか。それともそういう類のものとは違うもの(もっと神秘的な何か)のせいなんだろうか。

 

 

何も分からなくなってくる。私の喜怒哀楽は単に神経の電磁気学的相互作用かもしれない。今宵、誰かに愛を伝える人の言葉は、電流と振動の作用かもしれない。

 

しかし、それで良いのだろう。分からないのは分からないなりに。ただ眼前にある喜怒哀楽を信じれば良いのだろう。ミドリムシが心地よいのであれば、それ以上のことは知らなくていい。モミジが美しいのであればそれ以上のことは分からなくてもいい。

そして何より、我々が(モミジのように)頰を赤らめることがたとえ物理学的現象の帰結であろうとも、それはそれとして、そこに大切な何かがあるのなら、それで十分なのだろう。

 

自由意志とは、そういうものかもしれないと、時々思ったりする。

 

 

オチのない話が長くなってしまった。もう年の瀬も間近だ。鬼に笑われぬよう、残り少ない日々を大切に。

【地球くらい丸いこと(大切な1年間の備忘録にかえて)】

以下の記事は11月初旬に一度投稿し、諸般あって再度投稿するものである。無論、時候の挨拶やいくつか時系列に関しての矛盾があるが、その時感じた言葉を変えるのは惜しい気もするので、そのままにしておく。

 

(以下、本文)

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秋雨が蕭々と降る。私は(久々に座る)自室の椅子で長い長い走馬灯を見るように(それはとても矛盾的な感覚で)この1年間をゆっくりと咀嚼している。

 

さて、学園祭というのは学生によって様々な顔を見せるものである。ある人にとってそれは人生史に残る青春であるし、またある人にとっては単なる休日。ある男女にとってそれは恋の始まりかもしれないし、ある男たちにとってそれは友情の証かもしれない。

私にとってそれはなんだっただろうか。全てが当てはまるような気もするが、全部が全部全然違ったような気もする。

 

最終日に文字通り顔に塗りたくってしまった何かはもう消せぬ過去であるから、私が何を語ろうがそれは茶番である。しかしながら、いつか(例えばそれを忘れた時、または忘れたことすら忘れてしまった時に)記憶の迷宮を彷徨う私の"アリアドネの糸"となるように、ここに備忘録を記すことにする。

 

日記や日誌、備忘録というのは時系列を追うことがセオリーなのだろうが、私の記憶を走る馬車馬はそれほど優秀ではないから(幾分邪道ではあるが)、思い出されることから綴ろう。

 

1年間の前半分くらいの私はあまりにも傲慢であった。(以下の告白は純然たる事実であるし、それを今更取り繕う気もない、かような内容にて気を悪くされる方もいるかもしれないが、事実以外を語る備忘録に意味はない)

人を数として割り切ることが、組織を運営することには必要不可欠であると考えていた。無論それは全くの間違いというわけではなくて、そういう側面があることもある。しかし、それだけでは全く上手くはいかないようにも思う。

 

割り切ることはある意味において非常に重要である。それは肉体的な意味において労力軽減であるし、精神的な意味において自己防衛である。相手にする組織が大きければ大きいほど、そういう姿勢というのは意義深い。だけれども、人は人であり、数字ではない。いくら数学的論理的に最適であっても、全く上手くいかぬことが山のようにある。

 

他方、1年間の後ろ半分は迷い続ける時間を過ごした。その迷いは常に後悔と共に私を襲い、私はいつでも過去の間違いに、ほとんどない髪を引かれ続けた。

 

正直に言えば、もっと上手くやれたのではないかと、思ってやまない。彼彼女があの時期どれだけ辛かったのだろうとか、どうして私はそれに気付かなかったのだろうとか、そういう類の後悔は、実のところ今でも内心に塒を巻いて鎮座している。

 

または、1年を通して意味を問い続けてもいた。どうしてみんなにこんなしんどいことをさせるのか、多くの人の大量の時間を潰して果たしてなんの意味があるのだろうか、そういう茫漠とした疑問がことあるごとに想起された。

しかしそれは、全て終わって見るまで(少なくとも私には)全く解けない問題であった。逆に言えば、全て終わった今、その答えは、(答えらしき何かは)私の中にある。ただ、その答えのようなものを言語化するにはまだ少し時間がかかりそうだ。

 

 

意味というのは、常に結果に付随するのではないかと、思ったりする。それはまるで木々の成長が雨上がりに訪れるように、雨の降る最中には木々の成長はなく、降雨の意味はわからない。または、意味というのは結果によって簡単に変わってしまうのだろうとも思う。もしも誰かに何かあれば、意味は簡単に変わっていただろう(それを見つけられるかは度外視して)。

 

組織や社会、世界は丸い方が良い、と思っていた。全ての人はone of themで没個性的で淡々としている方が良い、と思っていた。しかしそれは全然違うのかもしれない。ちょうど組織は地球くらいの丸さの方が良いのかもしれない。時には突き出た山岳地帯があり、時には深くえぐれたクレーターや海溝があり、本当の深層部は広大な海に覆われていて見えないが、それでもおおよそ丸い、全体として丸に近い、そのくらいの方が、上手くいくのかもしれない。

 

 

今回の投稿はあまりにもフワフワしていて、私以外には理解できないかもしれないが、まぁそういう回があっても良いかもしれない。特に宣伝することもせず、気付いた人、時間を持て余した人が読んでくれれば良い。

 

 

気がつけばキャンパスの葉は赤黄色に染まっている。朝夕は師走を運ぶような寒風が身を切るような季節、体調には気をつけて。

 (以上、本文)

 

私か、または誰かの、何かのために役立てば幸いである。

 

【夜のノビ・ノビタ】

眠れない夜である。夏が終わり、秋になると私は毎年かような夜を何度か繰り返す。秋の夜は長く、取り留めのない思索に耽ったり、意味を持たぬものを書いてみたりなどしても、まだまだ日はのぼってこない。

 

ブログを更新していないこともあるし、お酒も少し飲んでいるし、今回は散文的に、詩的に、真夜中の散歩でふと思ったことを綴ることにする。

 

谷川俊太郎の詩に『夜のミッキーマウス』というのがあることをふと思い出した。私はどう考えてもミッキーマウスのような人気者でないし、プーさんのようにおおらかでもない、まあ踏ん張って野比のび太が関の山である。彼と私との違いは、目を瞑ってすぐに眠れるかどうかと、猫型の優秀な機械を持っているかどうか、くらいであり、それは些細なことである。

 

猫といえば、最近自宅のまわりに猫が増えたような気がする。私個人の推測ではそれは近所の大きな建物の解体と関係していて、よく出没する猫たちは住処を追われた漂流者なのではないか、と考えている。が、私が猫と会話できない以上、真偽は定かではない。

 

私も猫たちと同様、この夜を漂流している、または、それは人生のことかもしれない。風に吹かれて転がる石に自らを写したのは、ボブディランだったか。どれだけ歩けば、私は一人前の男になれるのか。(風に吹かれての冒頭)

 

ボブディランがノーベル賞を辞退するとかいう話を読んだ。そういえば、サルトルノーベル賞を辞退した、という昔話を聞いたことがある。彼の『実存主義とは何か』に手を出したのは私の浪人が決まってからだったろうか。

 

浪人や、その他諸々の時を経て、だいたい20年間、この世界で生きている。問題は常に山積みだ。壁や障子に耳や目がないかわりに、窓ガラスや本棚や温かいコーヒーの中にだって、常に問題を囁く口がある。口、口、口…。

 

別段、憂いているわけではない。極論すればあと数十年の人生も、それなりの働き口を見つけて、夜になれば好きな歌を口遊めばよいのだ。今、私がそうしているように。

 

夜に歩けば、たくさんのものを見て、たくさんのことを考える。それは大抵間違っている。しかしそれで良いのかもしれない。私は太陽のように正確ではないからだ。むしろ月のように、昼間上がることもあれば夜上がることもあり、また、それはそれとしてちゃんと地球の周りを回っている、月のようであればよいのではないか。月である、ことのみが月を月たらしめているのだ。それはのび太も猫たちもボブディランもサルトルも、そしてもちろん私だって同じである。それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

 

散文的とは言ったものの、あまりにも文章が散らばりすぎたのでこの辺りで夜の散歩は終わることにする。

肌寒くなる季節、風邪を引かぬように。

 

【ハゲオヤジ、または国家について】

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爽やかな季節である。高い空に浮かぶ雲に朝日が反射して、世界がきらきらと輝くような。

 

さて、朝の通学でふと思い出した数学の命題がある。今回はそのパラドキシカルな論法とサイエンス、哲学、そして国家戦略の妄想をツラツラと綴ることにする。

 

"ハゲオヤジのパラドックス"というのをご存知だろうか。数学や論理学に興味のある人にとってはあまりにも有名であるから、今更私が説明するまでもないのだが、カンタンに言うと、

 

『人類は全て、ハゲである』

 

ことを主張する。

以下、証明。

数学的帰納法を用いる。

1、髪の毛が1本しかない人はハゲである。

2、髪の毛がn本の人をハゲだと仮定する。するともちろん、髪の毛がn+1本の人もハゲである。(1本増えたところで波平はハゲ)

1、2より数学的帰納法から、髪の毛が何本あっても人はハゲである。

 

と言うものである。

これを正当に反駁できるだろうか。論破できるだろうか。

 

…電車の向かいに座る人々、ハゲ、ハゲ、少し空いてハゲ、ハゲ、ハゲ…。

そんな世界はあまりに世知辛いので種明かしをしよう。

 

このパラドックスの問題点はズバリ、"曖昧さ"である。(私は過去、この命題に対する解説をいくつか読んできたが、どれも最終的には曖昧さに帰着させていた)

換言すると、"ハゲとは何か"ということが明確でない。髪が0本の人は多分ハゲであるが、たとえフサフサでも10円ハゲはハゲである。

例えばハゲを数学的に定義できればこのパラドックスは回避できる。(つまり髪の毛の本数を具体的に指示する)

ハゲというのは(数学的に見れば)あまりにも"曖昧な"概念である。

 

ヴィトゲンシュタインという哲学者がいる。"語り得ぬことには沈黙せねばならぬ"と言った彼である。私は浪人時代、彼をよく読んだ。彼もまた、"長らく議論されてきた哲学的命題はおよそ全て、言語使用の曖昧さにその本質がある"と語っている。(と私は考えている)

まぁ、哲学的命題が全て言語使用の曖昧さに起因するとは少々早計であるような気もするのだが、彼の主張もある程度は的を射ているような。

 

 

ところで、ノーベル賞発表の時期である。私も専門が物理であることもあり、注目している。

毎年のことであるが、ノーベル賞発表の前後は

 

『この研究、何の役に立つんですか』

 

という質問が飛び交い、

 

『そんなことに血税を使うのか』

 

と怒る人もいる。

多くの科学者や政治家、評論家が"役に立つ"の話をしている。

しかしながら、そもそも"役に立つ"とはどういうことなのだろうか。それは誰が決めるのだろうか…。

マイケルファラデーは電磁誘導の法則について政治家に、"それは何の役に立つか"と聞かれた時、"それはわからないが、20年後あなたは必ず電気に税金をかける"と答えたという。(私は科学者の逸話をほとんど信じていない、が、昔議会議事録でこの議論を見たような気もする)

 

何の役に立つか、、、その質問の本質もまた、"曖昧さ"にあるような気がしている。換言すれば、役に立つか、立たないかなどというのは人によって捉え方が異なるし、それこそメガネを役立てている人とそうでない人のようなものだ。

そのような曖昧な基準で物事を測ることはキケンである。(どんな美人をもハゲと呼ぶことになるのだから)

 

 

それでも国は(どちらかといえば)近視眼的な科学政策を立てる。数年後の成功を目処に予算を組む。果たして"役に立つか"という曖昧な議論で国家戦略を定めて良いものか。

研究者を志す私の憂いも多少なりとは含まれるかもしれないが、それを度外視しても、現状が少しでも良い方向に向くことを祈らずにはいられない。

 

 

深く黙考する秋である。ドビュッシーが似合う夜長である。夕闇の帳は景色を曖昧にする。この曖昧な季節に無理をしすぎることのないように。

 

追伸

どこの誰だかはわからないが、コメントを頂いた。私はコメントの返し方がわからないので、ここで感謝を伝える。

コメントはカリスマブロガーへの糧である。(多分)

【数学的歩き方のススメ(梅田編)】

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永遠と曇天が続く、秋晴れが待ち遠しい時分である。来たる台風が晩夏から尾をひく低い雲を運び去ってくれることを切に願っている。

 

さて、更新がかなり遅くなってしまった。夏期休暇中の私は、ものを書くにはあまりにも余裕がなく、考えるにはあまりにも時間のない生活をしていたので、なかなかコチラの方まで頭が回らなかったのだ。が、また再開である。カリスマブロガーへの道程で座り込んでいたが、またすくっと立ち上がり、メロスのごとく走り出す…つもりである。

 

今回は"最適化"について最近思うことをツラツラと書き連ねる。最初に断っておくが、私はこの分野を深くは学んでいない。したがって、まま、間違いもありうる。諸氏は目を瞑っていただけると幸いである。

 

まずは、サイテキカ…?という方のために。

これは理論体系というよりは、各分野の根底を流れる一つの思考手法である、と私は考えている。物理学、金融工学、分析経済学、情報工学…その他、最適化という概念を含む分野は非常に多岐にわたる。(但し、物理などでは最適化という言葉は用いない、本質的に同じことをしているのみである)

…まぁ、カンタンに言うと、"1番良い方法"は何かを知る。ということである。

 

 

何故そんな難解な学問の話をしているかというと、これがどうやら日常生活にかなり役に立つ(というか私は役に立てている)からだ。

もちろん私は数理アナリストではないし、理論物理学者でも敏腕プログラマーでもない。しかし、私の日常には最適化問題が溢れている。

 

以下、私の最適化問題(この例は大阪に住んでいる人にしかわからないかもしれない、が、大阪に住んでいる人なら、私と同じことを考えたはずだ)

私は梅田をよく利用する。あそこはまるでそうダンジョンのような土地である。特に私が不満なのは、大阪駅からヨドバシに行く時で、一旦地下に降りるか2階に上がるかしか渡る方法がないのだ。(つまり、横断歩道がない)

または、地下鉄東梅田からヨドバシに行く時、大阪駅南側から、先ほど述べたルートを通るか、または一旦阪急百貨店側に渡ってから、ダイコクドラッグの前の横断歩道を渡ってヨドバシに向かうか、という選択に迫られる。(本当にわからない人には何を言っているのかわからないと思うが、わかる人には必ずわかるはずだ)

 

この時、どのルートが最も近いかというと、これはとても難しい。

例えば、(こんな極端な例があるのかと思うが)階段大好きおじさんなら、きっと地下に降りるか、2階に上がる。電車大好きおじさんなら、JR大阪駅から見える列車を少しでも見るために2階に上がるかもしれない。

もっとありそうな例を示そう。

普段私は大阪駅南側から一旦阪急百貨店側に渡る。

しかしもし雨が降っていたら、どうか。この場合は大阪駅を南北に通ってから地下に降りてヨドバシに渡る。

 

何が言いたいのか、というとこれはある意味での最適化問題であるということだ。人の好み(階段大好き電車大好き)やその時の状況(雨が降っている、傘を持っていない)によって、どのルートを通ることが最も利益をもたらしてくれるのかというのが決定されるわけである。

もちろん、距離は短い方がいいが、土砂降りの中を歩くよりは建物の中を歩きたい。もちろん、早く着きたいが、人混みはゴメンだ。などなど、いくつかの要素が相反するとき、その中で最も良い方法を考えること、それが日常の最適化である。

 

少し慣れてくると、各要素を変数にし始める。例えば基本変数を距離としておくと、雨が降る場合は×1.5、屋根があって日差しが防げるなら×0.7というふうに、距離に"重み"をつける。こうすることでどのルートを通ることが最も効率的なのかということを数学的に計算できるのだ。

 

道のりだけではない。複数人がどこで飲み会をやれば合計の移動費が少なくて済むか(ネットワーク問題)、どのように値段を変えれば商売がうまくいくか(動学的最適化)などなど、非常に広範な領域に用いることが可能である。

 

…こんなことを考えながら生きているのか、と冷笑されるかもしれないが、私自身は、歴史的成果に裏打ちされたこの美しい数学的手法を用いて生きていけるということは、とても面白いことだと考えている。または、人生の大切な選択をするときに、ただの直感であるよりは、かような論理に頼る方がまだマシなのではないか、などと思うこともある。

 

 

もう年の瀬も目の前だ。有り余るタスクを最適化しつつ、季節の変わり目に体調を崩さぬように。

 

【アンパンマンの本体はどこか?】

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ここ数日、ブログの更新ができておらず、カリスマブロガーを目指す者としては余りにも怠惰的であると反省している。否、本当はずっと下書きに置いてある文章があるのだが、(これまた荒唐無稽意味不明な疑問についてである)どうやら今の私の手に負える問題でないように思えて思考停止してしまっているのだ。英文学などを専門にしている方に相談したいものだ。(表題【おじいさんの古時計はいつから古いのか】)

さて、今回は上記のような難解なお話(でもない)は置いておいて、アンパンマンについてである。

"アンパンマンの本体はどこか"

ふと浮かんだ疑問はまたノーミソの中を堂々巡りした。私の考えうる可能性は3つ。

1、アンパンそれ自体
2、アンパン以外の部分
3、両方に分割

他には可能性のないことを慎重に確かめて一つずつ検証することにした。

1、アンパンそれ自体説
この場合、"顔が濡れて力が出ない"ことは頷ける。まさしくアンパン男である。
しかし考えてみればアンパンマンのアンパン部分は取り替え可能(というかそれが物語の重要な点)である。
したがって、バイキンマンが悪さをしたという過去の事実を記憶しているアンパンが濡れて、取り替えられてしまえば、過去の記憶は新たなアンパンには引き継がれず、アンパンマンバイキンマンを成敗するモチベーションはなくなってしまうのだ。したがって矛盾が生じる。

2、アンパン以外の部分説
こちらの場合、上記のような"情報の不連続性"は回避できる。
しかしながら、この場合、そもそもアンパンはなんのためにあるのかという根本的な問題にぶち当たり、さらには"顔が濡れて力が出ない"ことを説明できない。
顔がアンパンである必要も、そもそも顔がある必要もなくなってしまい、これまた矛盾的である。

3、両方に分割説
この場合、1、2の問題は回避されるかもしれない。しかし今度は、顔が取り替えられる有限時間が問題である。
バタ子さんの肩はどうやらとても強い。したがって、アンパンマンの顔が入れ替わる時間も非常に短いと考えられる。
しかしながら明らかに有限時間が消費されるため、アンパンマンの顔と体が別にある状態が発生するわけである。
そもそも生物がその個体として生命機能を維持する際に分離できる可能性があるのだろうか。(もともと生物でないとして生物的行動をするのだから問題は同じである)
顔が入れ替わる間のアンパンマンをうまく説明できない。


…さて、私の矮小な知性ではこの"アンパンマンの本体問題"を解決することは難しいように思われる。

他にも、
4、アンパンマン実は操縦士いる説
5、アンパンマン非科学的存在説
等々考えられるが、どうもしっくりこない。


無論、そもそもアンパンマンなどという題材を論理的科学的に分析しようということ自体、滑稽なのかもしれない。しかし、この問題は、テセウスの船的哲学上の問題、生物無生物、AI等生物学的上の問題、または、無限後退的論理学上の問題などを孕んでいるようにも思える。


ダラダラと一日中実験をしているとこうもキチガイのような話をツラツラと考えてしまう。何事にも息抜きが大切である。