サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【夜のノビ・ノビタ】

眠れない夜である。夏が終わり、秋になると私は毎年かような夜を何度か繰り返す。秋の夜は長く、取り留めのない思索に耽ったり、意味を持たぬものを書いてみたりなどしても、まだまだ日はのぼってこない。

 

ブログを更新していないこともあるし、お酒も少し飲んでいるし、今回は散文的に、詩的に、真夜中の散歩でふと思ったことを綴ることにする。

 

谷川俊太郎の詩に『夜のミッキーマウス』というのがあることをふと思い出した。私はどう考えてもミッキーマウスのような人気者でないし、プーさんのようにおおらかでもない、まあ踏ん張って野比のび太が関の山である。彼と私との違いは、目を瞑ってすぐに眠れるかどうかと、猫型の優秀な機械を持っているかどうか、くらいであり、それは些細なことである。

 

猫といえば、最近自宅のまわりに猫が増えたような気がする。私個人の推測ではそれは近所の大きな建物の解体と関係していて、よく出没する猫たちは住処を追われた漂流者なのではないか、と考えている。が、私が猫と会話できない以上、真偽は定かではない。

 

私も猫たちと同様、この夜を漂流している、または、それは人生のことかもしれない。風に吹かれて転がる石に自らを写したのは、ボブディランだったか。どれだけ歩けば、私は一人前の男になれるのか。(風に吹かれての冒頭)

 

ボブディランがノーベル賞を辞退するとかいう話を読んだ。そういえば、サルトルノーベル賞を辞退した、という昔話を聞いたことがある。彼の『実存主義とは何か』に手を出したのは私の浪人が決まってからだったろうか。

 

浪人や、その他諸々の時を経て、だいたい20年間、この世界で生きている。問題は常に山積みだ。壁や障子に耳や目がないかわりに、窓ガラスや本棚や温かいコーヒーの中にだって、常に問題を囁く口がある。口、口、口…。

 

別段、憂いているわけではない。極論すればあと数十年の人生も、それなりの働き口を見つけて、夜になれば好きな歌を口遊めばよいのだ。今、私がそうしているように。

 

夜に歩けば、たくさんのものを見て、たくさんのことを考える。それは大抵間違っている。しかしそれで良いのかもしれない。私は太陽のように正確ではないからだ。むしろ月のように、昼間上がることもあれば夜上がることもあり、また、それはそれとしてちゃんと地球の周りを回っている、月のようであればよいのではないか。月である、ことのみが月を月たらしめているのだ。それはのび太も猫たちもボブディランもサルトルも、そしてもちろん私だって同じである。それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

 

散文的とは言ったものの、あまりにも文章が散らばりすぎたのでこの辺りで夜の散歩は終わることにする。

肌寒くなる季節、風邪を引かぬように。