サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【点字ブロックはなぜ黄色いか?】

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今回は、"点字ブロックはなぜ黄色いか?"という素朴な疑問から、生物進化の神秘に迫るところまで私の妄想力を最大限に生かしていきたいと思う。(といっても、前回のアインシュタインカレーうどんよりはいくらかマトモである。)


さて、まずは上述の疑問に答えよう。点字ブロックが黄色い理由はカンタンで、
"目立つから"
ということらしい。特に法的拘束力はないため、景観保護の観点から黄色以外が使用されることも多い。

では今度は、"黄色いとなぜ目立つのか?"という疑問に至る。(このナンデナンデ精神が友人の少ない理由であることは最近になって気付いたことである。)

この答えも単純明快で、
"道の色に黒が多いから"
ということらしい。黒色に対して黄色というのが人間にとっては目立つらしいのだ。

ではでは、"どうして黒色と黄色が目立つのか?"(はて、もうすぐ終わるので飽きずに続きを読んでほしい。)

これは"警戒色"と呼ばれるコントラストで、人間に対し不快感や危険察知の意味合いがあるらしい。考えてみれば、踏切(踏切については色がJIS規格で定められている)や立ち入り禁止のテープなど黒色と黄色が使われているものは多い。(阪神タイガースが危険かどうかは各個人の見解に委ねる。)

ではではでは、"どうして警戒色は人間を警戒させるのか?"

この問いは先述の問いに比べて解答がいくらか難しい。

というのもそもそも黒色と黄色による作用は生物進化に遡る。多くの動物が保護色で身を守るのに対し、一部の爬虫類や両生類(あの、キモチワルイ蛇やスズメバチなど)は天敵に対し、警戒色による視覚効果と臭気や毒性をセットで擦り込んで身を守るらしい。

しかしながら、別段私が過去に黒黄色の生物に不快な思いをさせられたことも、命を狙われたこともない。どうして私は黒黄色に目を引かれるのか。
んーーー、唸って考えてみても私にはよく分からない。(というか専門の人がいれば聞いてみたい)

なんとなく、"遺伝子に擦り込まれてるのでは"というテキトーな答えに落ち着くのだが、それはつまり私の祖先がハチか踏切かヒョウ柄のおばちゃんにめっちゃ嫌なことをされたというのだろうか。

ここまで書いてこの話にオチがないことに気付いたのだが、もう引っ込みがつかないので宙ぶらりんのまま置いておこうと思う。

点字ブロックの先に見えたのは、私の祖先のトラウマか、もしくはもっと深い何かなのか。

【アインシュタインとカレーうどん】


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ある文献によると、"かのアインシュタインが写真の中で舌を出しているのは、初めてカレーうどんを食べて辛さに驚いたからである"…らしい。
というのはモチロン真っ赤なウソであるが、私はカレーうどんを食べるたびにアインシュタインを彷彿としてならない。

カレーうどんの革命性に想いを馳せたことがあるだろうか。

(以下、うどん世界史)
うどん世界ではまずかけうどんができた。(うどん誕生)
初期はとても太いうどんであったが、のどごしを追及され、いかに細くするかに注力された。(初期うどん技術成長)
そこにお揚げさんや天ぷらや牛肉や卵を乗せる人々が現れた。(第一次うどん成長期)
夏になると、うどんを冷やす人々が出てきて、うどんの世界に新たな時代がやってくる。(冷し-ぶっかけ革命)
ここまでくると人々は"うどん世界は完成した"と思ったであろう。もうこれ以上何も為すことはないと。(うどん世界停滞期)
しかし、ここにきてある男(か女かは知らないが )がなんとうどんにカレーをかけ始めたのだ。これは停滞したうどん世界においては革命的なことであった。具材を乗せたり冷やしたりは思いついても、果たして誰がカレーをかけることを思いつくだろうか!(カレーうどん革命)

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(以上、うどん世界史)

ここまで読まれた方は、カレーうどんの登場にココロオドったであろう。

これがどうしてアインシュタインなのかというと、物理科学の歴史を紐解くとうどん世界のそれと酷似しているからだ。
天体力学より始まる古典力学、また電磁力学といったいわゆる決定論的力学の完成により、物理科学の世界は完成されたと思われていた。
しかし、MM実験による光速度不変性や黒体輻射といった観測的事実からアインシュタインによる相対論、量子論が生まれたのである。つまり、カレーうどんである。(説明はかなり端折ってある)

阿呆のような話であるが、紛れもなく阿呆な話である。しかし、かような思索に取り憑かれて以来、私はアインシュタインを思うことなしにカレーうどんを食せない体になってしまった。


…私は歴史家でなければ風俗学者でも文献学者でもない。しかたがってこの『うどん世界史』は全て完全に作り話である。(声高に口弁を垂れて後で冷たい目で見られても責任は取れない)


一杯のカレーうどんに何百年という科学の歴史を感じる毎日である。



【文字を綴ること】

どうしてこのご時世にブログなのか、というご指摘は至極ごもっともである。特段、伝えたいことがあるわけでなし、また伝えようと思うことがあったとしてもブログなんて書く人以外の誰が読むのか。

だが考えてみると、人類が誕生してから今日まで、"どうして綴るのか"に納得できる答えを得たことなどあるのだろうか。"徒然なるままに"ダラダラ書かれたものや、"男もすなる日記といふものを女もしてみむ"とナゾの動機で書かれたものが教科書にのり、多くの人に暗唱されているのが現状である。

しかしながら、何事にも理由をつけたい時代である。「どうして政治資金でウナギ屋にいったんですか?」にたいして、「食いたかった」以外の答えがあるだろうか。そういう類の質問にまで皆が納得のいく言い訳を考えなければならない時代である。はて、私はなぜ綴るのか。

(以下言い訳)
『文字の寿命』は加速し続けている。昔(そんな時代があったのかどうか知らないが)伝書鳩が手紙を届けていた頃、または、飛脚がエッコラエッコラ届けていた頃、人々は届いた文を後生大事に持っていたろう。文字の寿命は人の寿命と同じくらいであった。
少し前の時代、人類がメールなる技術を発明し、文字の寿命は恐ろしく短くなった。読んだメールはゴミ箱にポイッ、である。長生きなやつでも数日といったところであろうか。
そして現在、文字の寿命は数秒である。某青い鳥のSNSやfaceなbookに産み落とされた文字たちは少しでも余所見をすると知らぬ間に死んでいる。

このままではいつか、我々が文字の寿命をゼロにする日が来るのではないか。

いつの時代にも世相の流れに逆行するものがいて、(少なくとも歴史的に見れば)彼らはある一定の役割をなしている。
ならば私も文字の寿命が加速する時代に、長く長く生きる文字を生んでやってもいいのではないかと、そういう考えでこうして長生きな文字たちを生んでいるわけである。

(以上言い訳)

ダラダラと言い訳を綴ったが、何もたいそうなことはない、どーでもいい時代の、どーでもいい場所で、どーでもいい男が、どーでもいいことをツラツラと綴るのみである。
いつかどこか、だれかの暇つぶしになれば幸いである。