サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【紀行雑記1-1 黒海に浮遊する脳】

f:id:moshimoshi1124kameyo2254:20170811071515j:image

私は紀行文というジャンルをほとんど読んだことがない。土佐日記を紀行文というのなら目に触れたことくらいはあるだろうか。だから私は紀行文というものがどうして存在し、どういう意味を持っているのかということについて、ほとんど何も知らないし、また考えたこともなかった。

 

紀行文は例えば排泄のようなものかもしれない。

 

旅の中でヒトは何かを吸収している。そして吸収には常に排泄がつきものなのだ。知らない街で見た景色、音、匂い、そうしたものを吸収した後に、ふわりと残る質感、それこそ紀行文の存在意義なのだとぼんやり想像したりする。

 

 

さて、私は今、ローマの外れにあるホテルの一室でこの端書を認めている。日本からイタリアまで約14時間のフライトで身体はクタクタのはずなのに時差ボケのためか睡魔はまだやってこない。

大阪から一旦ソウルへ入りトランジットしてイタリアローマへのフライトである。飛行機は小さくも意味ありげな蛇行を繰り返しながらほとんど最短経路をたどって目的地を目指した。機内では英語、イタリア語、韓国語、そして少しの日本語が飛び交い、まるで全ての人種を詰め込んだノアの箱舟のように、高度1000メートルを進む。

 

座席の前には乗客一人一人に割り当てられたモニターがあって、映画やドラマ、音楽やゲームを楽しめるようになっている。

その中に機外カメラという項目がある。それは機体前方と下方に取り付けられた機外カメラの映像をリアルタイムで見ることができるというものだ。

私は長いフライトの中でそのカメラ映像をぼーっと眺めていた。ほとんどの時間、下方には雲海が広がり、前方の映像はほとんど真っ白であったが、ちょうど黒海を抜けてイスタンブールの北部を過ぎるあたりから雲が晴れ、海が見えた。

広大な海を眺めているとどんどんと吸い込まれるような感覚に陥り、海の上でポツンと1人浮いているような気持ちになる。そしてそれは孤独とは全く別物の、なにか高揚感に似た感情を付随し、"小さなワタシと大きなチキュウ"という純然たる真実を論理を超越した方法でもって心に叩きつけてくるようであった。

 

飛行機はさらに進み、やがてイタリア中部の農村地帯が見えてきた。機体は少しずつ高度を落としながら来たる終着地へと突き進む。

私は映像を眺めながら、眼下に広がる農村の小さな家に住む人々を思う。もちろん、私の思いとは裏腹に彼らは今日も全く変わらぬ日常を繰り返している。その事実は、ともすればとても奇妙である。かたや私はまだ見ぬ世界を心待ちに上空を飛んでいるし、かたや彼らはいつもと変わらぬ飛行機の音を聞いて、いつもと変わらぬ生活を送る。それらはたった数百メートルの距離にあるにもかかわらず一瞬たりとも交わることはない。おそらくは一生交わることのない人々に、私は思い馳せるのだ。

 

着陸の時が近づく。まっすぐ伸びた滑走路が見える。それは何かのメタファーかもしれない。機体は滑り込むように、そして至極当たり前のように硬いアスファルトに着地する。長い空の旅の終わりを知らせる音がする。

 

 

私の脳はまだ黒海の上空あたりに浮遊しているように思う。または黒海を抜けた農村の小屋の中でうずくまっているかもしれない。いずれにせよ、どこか知らないところをプカプカと浮いている。

どこかに浮いたままの脳を回収して、ちゃんと首の上に据えてやるために、人は紀行文を書くのかもしれない。

 

 

旅は始まったばかりである。どこかに脳を置き忘れたりしないように。