サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【夜のノビ・ノビタ(2)】

眠れない夜である。否、眠らない夜かもしれない。テスト前になると私もそれなりに準備するので、生活が変則的になり、今日のように遅くまで勉学に励むこともあるのだ。(その期間が一般的に長いのか短いのかは成績を見れば火を見るよりも明らかなのだが)

 

研究室にいて、少し小腹が空いたので散歩がてら何か買いに行くことにした。いつかのような、夜の散歩である。今回は大学の夜を少し散文的に眺めることにしよう。

 

 

私の通う研究室には"ひとをダメにするソファ"なるものがある。そこにドップリと座ってふと、"このソファは私を今以上にダメにすることができるのだろうか?"などと考えてみる。眺める先には煌々と光るディスプレイとそこに映し出される難解な数式。しかしそれらについて私はほとんど何も知らないし、またそれらが私に答えめいた何かを語りかけて来ることもない。

 

立ち上がり、部屋を出る。そこにはあまりにも長く、あまりにも暗い廊下が延びていて、向こうに小さく光が漏れている。全ての人にとって人生はこういうもので、ほとんどの人にとってあの光は幻かもしれない、などとよくわからない妄想に耽る刹那、私はどちらに属するのだろうと感傷的になったりする。

 

外に出ると、幾分空は曇っていて、夜道は目を瞑るよりも明るい。道の先には猫が見える。私を一瞥してそそくさと茂みに身を隠したそれはまるで季節のようだと、遠い春や、長い夏や、束の間の秋を振り返る。

 

夜道は朝歩くよりは長く、昼歩くよりは短い。大きな音を立てて幾らかのオートバイが傍を走り去った。

 

考えてもみると、コンビニエンスストアというところは全ての人にとって通過点に過ぎないのだろう。人はきっと、コンビニにたどり着く前か、コンビニから出た後に死ぬのだから。そしてその事実はコンビニをコンビニとして特徴付けるに足る唯一のものかもしれない。

 

店を出れば、今が冬であることを思い出す。暖かくて明るい店内は冬をより強固で冷酷で無機質なものにしているのかもしれない。暖かな部屋さえなければ、冬などそもそもありえないのかもしれない。

 

道に立つ信号機は驚くほどに迎合主義的だ。それらは寸分違わぬ速さで全く同時に赤黄緑と色を変える。それは丁度、社会に生きる私たちのようだ。

 

学部の入り口には大きな振り子が揺れている。そしてそれは地球の自転によるものらしい。私が眠っていようが起きていようが、何かを考えていようがいまいが、地球はいつも同じ速さで回るのだ。ピサの斜塔から鉄球が落ちた時も、木からリンゴが落ちた時も。

 

また私の体は研究室にもどってくる。精神はまだ、いつか見た猫を追いかけたままだが。

空が白み始めるまでに、まだいくつかやり残したことがある。

私の書く言葉が、散らばりすぎる前に散歩を終えることにしよう。

 

冬の盛り、夜更かしで風邪を引かぬように。

【右手には指が4本しかない】

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年が明けた。このところ冬将軍は少し影を潜め、例年に比べれば暖かな日が続いているように思われる。私の生活圏にも積雪はなく、安堵する大人な私と残念がる子供な私を感じたりするこの頃だ。

 

明けましておめでとう。このセリフも人生もう何度目だろうか。しかし何度来ても正月というのは良いもので幾分幸せな気持ちになる。

 

 

さて、今回は新年1発目ということもあって、私のブログらしく、わけのわからぬ妄想話を繰り広げたい。今年もカリスマブロガーを目指して雷鳥の如く突き進む所存である。(ここに綴られる妄想はまだまだ氷山の一角である。能ある鷹は爪を隠すのだ、脳のない鷹にも爪は見えないのだが)

 

 

唐突だが、あなたの右手に人差し指はあるだろうか?

 

 

え?今こうしてケータイを触っているではないか!と仰るかもしれないが、では、どうしてあなたは視覚を信じるのか?

 

私はあなたの身体について尋ねている。したがってあなたがその命題について何かを示す時にはあなた自身の身体を用いてはならない。(中学生の頃に習った数学の証明問題でも結論を仮定してはならぬと教わったはずだ)

 

無論、指をパチンと鳴らしてもダメだ。左手で撫ぜてみてもダメ。舌で味わっても鼻で嗅いでみても、それは証明にはならない。

 

では、他人を使うのはどうか、という話になるが、他人は他人でその認識を証明できない。

 

ドツボである。このままでは私の(あなたの)右手には人差し指がなくなってしまう。語り得ぬことには沈黙せねばならないのだ…(実はこのパラドキシカルなお話はヴィトゲンシュタインによるものである)

 

 

そもそも我々はナゼ、右手人差し指の存在を認めるのだろう?その存在は少し懐疑すれば簡単に揺らぐのに。

 

 

人は常に、"ありそうな(そしてあってほしい)世界"を想定し、信仰するのだと最近考えることが多い。世界(またはある現象)に対する解釈というのは複数存在する。そして我々はその中で最も"ありそうな"解釈をある種盲目的に選択している。

 

身近に言えば、若き日の恋愛などもそうである。観測事実(言葉のやりとりや仕草、好みや噂話)だけを見ればそこには両極端な解釈が複数存在するのに、多くの場合我々は"ありそうな"(場合によってはあってほしい)仮説の1つを選択し、信じ込む。そういう盲信が悲しい結果を生んだという経験は誰にでもあることではないだろうか。

 

そういう類のことは恋愛以外の人間関係(友情や家族、学校や会社)にも沢山存在するように思われるし、より広く、政治的思想、宗教信仰、自然科学に至るまで同様の形式をとるようにみえる。

 

しかし常にそこに存在するのは冷淡な観測事実のみであることを忘れてはならない。如何に正反対な解釈意見も同様の事実に立脚し、その事実を論拠とする。

そして"ありそうな、あってほしい"世界は人それぞれ異なっているということも真実のようだ。私のあってほしい世界はあなたのあってほしくない世界かもしれない。

 

 

私が"あなたの右手には人差し指がない"と言ったところで、あなたは人差し指の存在する世界を信じるだろう。私が"彼女は悪魔のような女だ"と言ったところで、あなたは彼女が淑女である世界を愛するのだ。

 

 

 

ニュースキャスターの事実とコメンテーターの解釈、教義文言の事実と宗教家の解釈…。

世界は限られた事実と、無限の解釈からできている。そしてそれは時として不可分的であり、複雑怪奇に絡まり合っている。事実と解釈を見誤ることのないように生きていきたいものだ。

 

 

 

冬至を超えて1日は少しずつ長くなるが、まだまだ春は先のようだ。流行病と正月太りには気をつけて。

【生まれたての僕ら〜年の瀬に寄せて〜】

世界がまた1つ歳をとろうとしている。誰が決めたかわからぬ誕生日に、私の部屋だけがその準備をできていないまま、一年が去り、またやってこようとしている。

 

 

さて、また数週間更新できていなかったが、これは明らかに私の怠惰的生活にその要因がある。

しかしながら、その怠惰な毎日の中にも疑問や発見はあり、そのいくつかを下書きに書き溜めているので、気が向けばカタチにしようと思っている。(【アリスとイケメンなわたし】【郵便ポスト貧乏】etc...)

 

 

今回はそういう偏屈な妄想は避けて、年の瀬にブログらしく"今年"を題材に短く収めることにする。

 

 

今年の漢字、というのが毎年発表される。いくら漢字が多くを語るとしても1年を1字で、というのは無謀すぎやしないかと毎年思うのだが、まぁそういうものなのだろう。

 

ふと、(まるでブロガーみたいに)私の1字はと考えたりした。

…"問"だろうか。今年は常に問い、問われ続けていたように思う。誰か(そして何か)が耳元で問いを囁き、私も同じように誰かに囁き続けた。

 

ーーーーー

 

しかし、考えてもみれば、問いというのは生まれてから今に至るまで常に私の周りに(そして内部に)一定数存在し続けているハズである。ならば何故、私は今年、"問"を挙げたのか…(という問いを耳元で囁くはてなブログはてな?)

 

多分、"問いの加速度"が関係している。問いは年々増えている。そしてそれは、線形とは程遠い割合で。そう、丁度指数関数のように増加し続けている。今年はその時間変化率の変化率、つまり加速度が大きいなと感じた年だったんだろう。

対して、"答えの加速度"の減少も著しい。答えの加速度は指数関数の逆数で小さくなっている。年々答えられる物事は減り続け、それはゼロに漸近する。

 

…さすれば、"問いの数"と"答えの数"が一致していたのはいつのことなのだろう?ぶち当たった疑問に全て答えを付けていられたころはいつなんだろう?

 

もしも"問いの数"も"答えの数"も指数関数に支配されるとすれば(数学的にはその背後に微分方程式が見え、いくつかのパラメタがみえるのだが)

その2つの曲線が交わるのはただ一点、"生まれた瞬間".だけである。この世に生まれた瞬間だけ、私は世界からの(そして私自身からの)問いに完全な回答を与えることができた。

プラトンは言う、人は生まれる前にイデアを見る、と。そしてそれは世界についての完備な解である、と。

また、夢野久作ドグラマグラの中で、胎児の夢を語る。退治は生まれる前に人生の(または人類世界の)全てを夢に見るのだと。

 

もしかすると私が(そしてあなたが)あげたオギャアという産声は悲しみでも喜びでもなく、もっと冷淡でロジカルな何かの完全な解だったかもしれない。

 

ーーーーー

 

多くの方かわけのわからぬ文章を読まされたと後悔していることだろう。私だってわけのわからぬ文章に時間を費やしているのだから、ご容赦いただきたい。短く収めるなどというのは真っ赤なウソであった。

 

 

 

0歳になれるならばなりたい。ベンジャミンバトンのように生きられるならその方が良いかもしれない。しかし、私は時間を犠牲にしたのと同じだけ、何かを手に入れている。それは0歳の私が決して持たなかった何かであり、きっと時間とは非可換的な何かである。

 

今年手に入れた何かを大切にして、答えなき世界への憂いと仲良く付き合ってゆくことができれば幸せである。来年もまた世界に溢れる問いの数々とゆっくり対峙していきたい。

 

 

火の用心の声が冷え切った街角にパッと明かりを灯した。明日は大晦日だ。年の瀬に風邪など引かぬように。

 

 

【禁酒とミンクオイル】

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村上春樹は死について、『死は我々を追いかけ捉えるものだ』と書いている。冬の寒さも、我々を追いかけ、捉え、そしてまた追い抜いて行くのだろうか。師走の数十日は、なにか気温とはまた違う"寒さ"を感じるような気がする。

 

 

さて、今回はそんな他愛のない冬のひとときに、ふと気づいた(無理やりにこじつけた)"遠い相関"のお話である。

 

 

私は禁酒している。その詳細については割愛するが、まぁ何はともあれアルコールは絶っている。幸福の本当の意味について幸福の外の人々にしかわからないのと同様に、私もお酒をやめてその意味にはじめて気づいた。

 

お酒を飲む、というのはある意味概念である。…というのは、"お酒を飲む"という文脈においてそれは、単にヒドロキシ基を体内に…という意味ではなくて、より広義に捉えられるべきだろうということだ。

友人や同僚とワイワイする、恋人と大切な時間を過ごす、父と2人で語り合う…そんな人生には欠かせない時間を演出することこそ、"お酒を飲む"ということではないだろうか。

 

そういう"広義の飲酒"の中でも私にとって特に重要なのは、1人で飲む、ということである。

特別な日でなくても、1人で好きな音楽を聴きながら、好きな本を片手に、好きなお酒を飲むというのはとても大切な時間なのだろう。

 

 

どうして飲酒をそういうカタチで捉えるようになったかというと、最近ミンクオイルの香りを嗅ぐ時間が増えたからだ。

つまり、以前にも増してブーツを磨くようになった。そしてそれは、ある側面において飲酒と同様の意味を成す。

 

 

 

人には"何もない時間"か必要不可欠だと思う。しかしそれは、単なる"ヒマ"とはいくらか異なるようだ。ある時間にヒマ、という名前をつけてしまうと、それは空洞になる。なにか予定を入れるべき空洞。勉強?運動?睡眠?

しかし、何もない時間は空洞ではない。私はその時間にお酒を飲む。ブーツを磨く。

大事なことは、"アタマを使わなくて良いがヒマではない時間"なのだ。私は今こうして明らかにブーツを磨いて時間を過ごしている。アタマでは何も考えないが、決してそれは空洞ではない、そういう時間。

 

 

現代は常に焦燥の中にある。社会は常に加速している。我々は実体の見えない魔物に追い回されるように、時間それ自体に翻弄されるように生きている。脳は常に思考し、精神は常に磨耗する。

そういう切り取られた"短い時間"の連続の中で生きる我々には"何もない時間"こそ、とても大切なのかもしれない。時計を止めて、ケータイを閉じて、少し部屋を暗くして、ほのかなピート香や、オイルの柔らかな匂いだけが支配する時間を楽しむことが大切なのかもしれない。

 

 

依然として私はお酒を断つ。それと同じだけ他のことに使える時間があるのだと考えるようになった。磨かれすぎた私のブーツが怒り出さぬうちに、もっと他の"何もない時間"を見つけようかなと考えている。

 

 

キャンパスの木々はすっかり冬の様相を呈し、また来たるであろう春に向けて、その内部で活力を滾らせているように散見する。風邪の流行る中、睡眠はしっかりと。

 

 

【来る年と冬の花火】

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夜が相当冷え込むようになった。冬は他のどの季節よりも空気が透明になる。帰路の街灯は何時にも増して輝くように見える。

 

さて、忘年会の季節である。身も財布も寒くなる季節かもしれない。私も3、4件の宴の席を用意しなければならず、予約できていないことを少し心配している。(この心配が偏に私の怠惰からくるものであることは承知している)

 

時を同じくして、スケジュール帳を新調する季節である(私は毎年1月始まりのものを購入する)。先日、2017年の手帳を購入した。

私は決してマメな方ではないが、幾分心配性であるから、スケジュール帳だけは高校生の頃から使用している。かれこれ6年ほど。

手帳を使われない方もいるかもしれないが、量販店に行くと夥しい手帳が並んでいる(それはまるでカマキリの赤ちゃんが隊列を成すようだ)。欲しいものはだいたい決まっているので、私としてはむしろそれを見つけるのが大変なのだが、見つけた後は安堵からか、絶対に買わない(し絶対に似合わない)手帳をパラパラと冷やかして回る。

 

手帳なんてものは何十年も昔からあるはずなのに、それでも毎年新しいアイデアに満ち満ちたものが販売されていて感心する。少しの違いなのだけど、それを一年通して使うことを考えれば大きな違いである。多分、手帳のことを一日中考えて手帳を愛してやまない人々がいるのだろうなと、彼は自らの手帳に手帳についてのことをたくさん書き込んでいるのだろうなと、どこの誰かもわからないオッサンに思いを馳せたりなどする。

 

 

他方、受験生時代以来、私は久々に付箋を購入した。必要に迫られての購入だったので、なんでも良かったのだが、コチラも小さな変化を遂げていることに気付いた。それはまた、とても小さなことなのだけど、私はその有用性に声を上げてしまうほど感嘆した。手帳と同じく、付箋について山ほどの時間を割いている人もいるんだろうということは想像に難くない。

 

 

 

変化には2種類あると思う。とてもとても大きな変化と、なかなか気づかない小さな変化だ。アインシュタインは物理に大きな変革をもたらしたが、その以前にはとても小さな(大理論の前では矮小化されてしまうような)発見がたくさんある。

そしてそれはまるで線香花火のように小さな火を灯す。皆が夜空に浮かぶ大輪の打ち上げ花火に見入る頃、側で小さな線香花火がチラチラと燃えているように。

 

 

しかし、むしろ大切なのは線香花火の方なのかもしれない。誰も気づかないけれど、それこそが私たちにとってはとても重要なことなのかもしれない。私の気付かないところでも小さな線香花火がポツポツと灯されているのだろう。そしてそれは、幾らかの人々を幸福にして、幾らかの人々に豊かさを与えているのだろう。

 

ふとした拍子、アイデアの灯火を見つけることは実はとても幸福なのかもしれない。

 

 

 

2017年の手帳に予定を書き込んだ。ページを捲ると、今か今かと私を待つ時間たちが踊っている。不器用な私はどうしたって一歩ずつしか歩めないのだから、急がずにページを重ねていきたいものである。

 

 

冬が世界を覆い尽くそうとしている。火遊びと風邪には気をつけて。

【タイホされる桃太郎】

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師走に入り、時の流れは加速度的に速くなっている。立つ力を失った落葉は、またいつか咲く花のための肥やしになるのだろうと、そんなことを考えながらわざと音のなる葉の上を歩いたりなどする季節である。

 

さて、私は(誰もそんなことは気にも留めないし、そもそも誰の目にも触れていないが)このブログを書くにあたり、できる限りジャンルが被らないようにと心がけている。サイエンスの話があればそれと同じだけカルチャーがあり、アートがあるように心がけている。それでもやはり、自分の本領というのは1番愛好してしまうもので、どうしてもサイエンスに偏りがちである。

 

しかしながら、私はもともと法律家を目指していた。法も物理同様、哲学から伸びる論理の枝葉なので、今でも趣味的に読んだりする。

 

 

前置きが長くなってしまったが、今回は六法全書を片側に置いて桃太郎を読んだらどうなるか、という思考実験である。(この話にオチはなく、完全な自己満足と承認欲求のみによって構成されていることを前提に読んでほしい)

 また、先に断っておくが、私は法律家でもその卵でもない。ただ法律を言葉の玩具として遊んでいるに過ぎない。したがって、法解釈の間違い、観念的競合等は度外視していただきたい。

 

 

さてさて、それではおとぎの世界へ…

 

 

『タイホされる桃太郎』

むかーしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。(まだ合法)

 

おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。(水質汚濁防止法による規制施設を通さない排出)

 

おばあさんが川で洗濯していると桃が流れてきました。おばあさんはそれを家に持って帰りました。(占有離脱物横領罪)

 

持ち帰った桃を割ると、なんと中から元気な男の子が生まれました。おじいさんとおばあさんはその子を桃太郎と名付けて育てました。(戸籍法第49条、52条における出生届書の未提出、3万円以下の過料)

 

桃太郎は元気に育ったものの、一日中、村で悪さをしていました。(学校教育法第91条、教育義務の放棄、10万円以下の罰金)

 

おじいさんとおばあさんは桃太郎を鬼退治に向かわせることにしました。(殺人教唆)

 

桃太郎は旅の途中で犬、猿、キジと出会い、お供にしました。(新鳥獣保護法における不許可捕獲、キジは特定鳥獣)

 

桃太郎は船で鬼ヶ島へ向かいました。(小型船舶の登録等に関する法律、船舶の登録番号等の不打刻、1年以下の懲役または30万円以下の罰金)

 

鬼ヶ島に着いた桃太郎は3匹のお供を連れて鬼と戦いました。(動物愛護法第44条、100万円以下の罰金)

 

鬼を退治した桃太郎は、鬼の持っていた金品を村へ持ち帰りました。(強盗致死傷、死刑または無期懲役無期懲役または6年以上の懲役)

 

めでたしめでたし

 

 

とんでもない物語だ。夢がない。こんなお話を聞かせたら子供達はどうなるだろう。(私のように卑屈な性格になってしまう)

ちなみに、税関を通さない不開港への入港、輸入は関税法で禁止されている。

 

 

こんな思考実験から学べることなどほとんど皆無である。(先に述べたようにこの話にはオチがない)

しかしながら、絞りかすのようなこの話から無理やり何かを見通すとすれば、それは科学とヒトの決定的な差異だろう。

サイエンスの世界では、100年前に正しかったことは今も正しい。(理論のパラダイムは変わるかもしれないが、実験データは嘘をつかない)

けれども、ヒトの世界では、100年前の常識が今の非常識になりえるのだ。それは法律だけに限ったことでなく、言葉もマナーも人間関係だってそうかもしれない。

 

そういう変わりゆく世界の中で我々は生きている。それはとても難しいことだ。極論すれば昨日までの模範解答が今朝起きれば0点になっていることだってあるのだから。

 

それでも私たちは(まるで信じられる支柱のない世界で)生きていかなければならない。稀代の哲学者たちはそういう不透明な世界から本当に信じられるものを見つけ出そうとした。

もしかすると、私たちだって、飾らない日常の中にそういう、"変わらないもの"を探し続けているのかもしれない。タイホされなかった桃太郎の人生と、タイホされる桃太郎の人生の中に共通の何かを見出そうとしているのかもしれない。

私は科学の道にいる人間だが、それでも人文学の目指す変わらないものを信じたいと思ったりしている。

 

 

あまりにも長く、とりとめのない文章になってしまった。年末にかけて多忙を極める中、体調には気をつけて。

 

【紅葉と感動するミドリムシ】

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ねっとりとした残暑はもう、遠い昔のようである。秋風は空天井をぐいっと押し上げて、青空はとても高く、その向こうの宇宙を思わせる透明感で持って秋を盛り立てる。

 

さて、またまた日にちが開いてしまった。無意味な弁明をしておくと、これは私の生活特有のもので、毎年10月の後半から11月の前半は躁鬱的になってしまうのである。まあしかし、それももう終わりに近づいて、あとはクリスマスとお正月を待つのみである。

 

 

 

今回は秋の紅葉とミドリムシのお話である。誇大妄想癖に拍車をかけていこう。

 

先日私は紅葉狩りに京都へ出かけた。同伴者は生物系の人であったので、無論話は"どうして葉は赤黄色になるのか"という話題にもなる。私は植物などについては本当に門外漢なので、聞き役に回るのだが、非常に面白い話であった。

 

具体的な内容は割愛するが、興味のある方は調べると良いと思う。私が面白いと感じたのは、"紅葉"という文学的で情緒的な現象が、生物学のメガネを通して見ると如何にロジカルか、という部分である。その論理は非常に洗練されていて、抜け目なく美しい。頰を赤らめる木々の真意はとても論理的で冷淡なのかもしれない。

 

 

他方、学会帰りの指導教員に興味深い研究を聞いた。簡潔に述べると、ミドリムシが強い磁場の空間内で磁場の方向へと動くというものである。これはミドリムシの細胞壁に存在する分子の配向性に起因する現象で、物理化学的にはさほど複雑ではないようだ。

 

否しかし、強い磁場の箱に入れられたミドリムシはどんな気持ちなのだろう。私だって時には(それはとても短い時間だけれど)他者の気持ちを考えることだってあるのだ。

ミドリムシは苦しいのだろうか。本当は動きたくないのに(それはまるで冬の朝の毛布の中のような)無理矢理に動かされているのかもしれない。

しかし、こういう想像もできる。つまり、ミドリムシは自分の意思で動きたいから動いている(とミドリムシは思っている)ということだ。それは私たちが美しい景色を求めたり、暖かい陽だまりを求めたりするのと同じように、そこに何か求めたいものがあると(ミドリムシは思っている)のかもしれない。彼らは何かに感動するために箱の中を泳ぐと(ミドリムシは思っている)のかもしれない。

 

 

多くの人が、自己の意思について議論を重ねてきた。それは難しい話ではなくて、どうして私はカレーうどんを食べるんだろうか。とかどうしてボクはキミのことが好きなんだろうか。とか…。

それは神様とか自然科学が決めることなんだろうか。それともそういう類のものとは違うもの(もっと神秘的な何か)のせいなんだろうか。

 

 

何も分からなくなってくる。私の喜怒哀楽は単に神経の電磁気学的相互作用かもしれない。今宵、誰かに愛を伝える人の言葉は、電流と振動の作用かもしれない。

 

しかし、それで良いのだろう。分からないのは分からないなりに。ただ眼前にある喜怒哀楽を信じれば良いのだろう。ミドリムシが心地よいのであれば、それ以上のことは知らなくていい。モミジが美しいのであればそれ以上のことは分からなくてもいい。

そして何より、我々が(モミジのように)頰を赤らめることがたとえ物理学的現象の帰結であろうとも、それはそれとして、そこに大切な何かがあるのなら、それで十分なのだろう。

 

自由意志とは、そういうものかもしれないと、時々思ったりする。

 

 

オチのない話が長くなってしまった。もう年の瀬も間近だ。鬼に笑われぬよう、残り少ない日々を大切に。