サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【夜のノビ・ノビタ(4)】

少し、ほんの少し空が白んで空気は飛び切り冷たくなる。この時間が一般的に夜と呼ばれるのか、朝と呼ばれるのか、私は知らないし、その判断はきっと、その人の人生のある側面を切り出している。

曖昧な午前4時。今日の私にとってそれは紛れもなく昨日のつづきであり、明日へのモラトリアムである。

少しだけ散歩することにしよう。こちらから朝を迎えに行くための散歩。この長い夜から抜け出すための散歩。

 

 

 

私自身の"アルゴリズム"を解明したい、という考えがアタマのどこかにあって、折に触れて(本当に何気ないときに)ふっと過ったりする。

 

現象と感情のアルゴリズム

 

我々は五感を頼りに生きている。そしてそれらは常に莫大な(そして矮小な)情報を私の中に流し込んでくる。陽の光や風の音、カレーうどんの味だって全部、1個の現象として身体の中に流し込んでくるのだ。

身体の中には、流し込まれたたくさんの情報を複雑な感情へと昇華させるアルゴリズムが存在していて、それは偶にあるエラーを除けば大抵の場合、インプットされた現象からある感情をアウトプットする。もちろんその営みには有限の時間幅が存在するのだけど、人間の目からすればそれらはほとんどの場合、瞬時に行われる。

 

しかし時々、いくらたっても感情を吐き出さないインプットもある。それは同じところを何度もなんどもグルグルと回り、時には私自身の電池が切れるまでとどまることがない。

ある人にとってそれは歓喜であるし、ある人にとってそれは後悔かもしれない。とにかくその"厄介なインプット"は際限なく私の中を回り続ける。

 

グルグルと回り続けたアルゴリズムも、いつか、忘れたことも忘れたくらいに、スッと何かを吐き出すことがある。それはまるで長い夜の後に訪れるほんのりとした夜明け方のようだ。

そしてこう思う、"きっと迷宮から抜け出たこの感情は偶然のものではないのだ"と。"きっと抜け出るためにアルゴリズムは書き換えられたのだ"と。そして、人はそれを成長と呼ぶのだと。

そういう瞬間に、私は私について(または私のアルゴリズムについて)、その断片を垣間見ることができたのだと感じる。私というブラックボックスが一瞬だけ片目を開くのだ。

もしかすると人生は、自分自身のアルゴリズムと向き合うための時間なのかもしれない。

 

 

新聞配達のバイクの音がする。どこかで朝ガラスが鳴いている。ヒンヤリと冷たい空に夜明けの光が射す。連続した長い夜は終わった。グルグルと回る迷走の時間は終わった。散歩も終えることにしよう。またすぐにやってくる現象の波に飲まれないように。