サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【雑感。美術館を泳ぐ異物】

(雑感、それは日記でもなく日誌でもなく、ただ日々の中にある雑多な感覚。時々は生活の中の一部分を切り取って見るのも良いかもしれないと思い、ツラツラと書き付けた)

 

 

雲と晴れ間が半分ずつくらいの少し暖かな冬の午後に、私はある人と美術館の前に立っていた。

 

彼は私の2つ上の先輩で物理学界隈の繋がりの中では群を抜いて賢い人である。

賢い人には往々にしてあることだが、彼の行動の半分くらいはいつも予測できない。今もこうしてステーキをご馳走になったあと半ば強制的に美術館の前に引っ張ってこられたのだ。

 

美術館と呼ばれる空間に来るのはいつぶりだろうか、と考えてみるがすぐには思い出せない。私のノウミソの"美術館"と書かれた引き出しは相当奥の方にあるのだろう。またそれは私の生活と芸術の距離そのものだ。

 

館内に入ると、私と先輩は自然と別行動になった。まるでそれは旅慣れた冒険家と気持ち半分の観光客のようである。私自身も冒険家の邪魔はしたくなかったし、共に冒険する気にもならなかった。

 

陶磁器や銅像を熱心に見入る人々が散見される。私は生来、美術品、こと陶磁器なんかの良し悪しは全くわからなくてヒマなので、陶磁器を鑑賞する人々を鑑賞して見ることにした。(そういえば中学生の頃、趣味は人間観察ですと言ったら後ろに座っていた女の子の顔色が変わったことがある)

 

ちょうど掌に乗るくらいのお椀に長いストローのような口がついた花瓶(のようなもの)を眺めているおばあさんがいた。花瓶の底部からストローの先までを舐めるように見入っている。ほぉーっと息が漏れて、しばし沈黙。説明文を読んでまたほぉーっと息が漏れる。花瓶だけでなくゴミ箱みたいな形のものやサッカーボールみたいなものにも同じ態度を取っている。

 

むむむ、訳がわからない。そもそもおばあさんはお椀とストローのどこを見てほぉーっと感動しているのか。ホントに私には訳がわからない。

 

おばあさんがストローの前からいなくなると、私もその前に行ってとりあえず同じことをしてみた。はぁーっと感動するふりをして、しばし沈黙。また説明文を読んではぁーっと感動してみる。うむうむ。やっぱりよくわからないぞ。

 

陶磁器の並んだ向こう側には今度はいくつかの人間像が並んでいる。付き添いの冒険家はあいも変わらず夢中なので、私はやはりヒマである。ただぼーっと人間像を眺めても仕方がないので、今度は作品の"粗探し"をしてみることにした。私がもし人間像を作るとすれば、1番気を使うのはやはり顔のパーツだろう。女性像なら胸やお尻かもしれない。と、いうわけで、背中はそれほど気を使っていないだろう。作品の裏に回り込んで背中ばかりを眺めることにした。その辺の人間像よりも目立つ動きをしている自負はある。

 

背中、背中、背中がない、背中…うーむ、背骨まで作り込んであるものもあれば、のっぺりとして背中だけ見せられたら何かわからないようなものもある。しかし、それはアラというよりはなんだか性質、個性という感じもするし…。

 

人間像の周りをグルグル回っていると、冒険家の姿が見えた。彼はやはり、人間像と目を合わせてみたり、いろいろな角度から眺めたりしている。

 

さて、そろそろ帰ろうか、先輩がそう呟いたのはひとしきり展示品を眺めた後だった。また一人で来るよ、そう言いながらまだその目線は展示品にある。この人は私より何倍も忙しいのに、また一人で来るのか…いよいよ理解不能である。陶磁器もこの冒険家も。

 

 

美術館を出ると小雨が降っていた。入る前の空とは幾分様子が違う。曇天は深く立ち込めて身を刺すような寒さもある。我々は温かいコーヒーを求めて歩くことにした。

 

…昔から芸術、特に美術品を愛でる気持ちがわからないんですよね、

そう切り出したのは私の方。続ける。

…だから美術館に連れてこられてもだいたい美術品を見ている人を見ていることの方が多いんですよ。

…うーん、なるほど。

先輩はぼーっと考え事をしているようだ。

…作品に対するこちらの姿勢をどういう風に考えて見てもどこかに矛盾が生じてしまうような気がして。

…例えば?

先輩の意識がこちらに向いてきた。

…例えば作品に対してある解釈を与える、という姿勢を取る場合、作品と自分との間に作者はいないわけですよね。それってどうなの?とか。逆に定説としてある解釈が与えられている場合、大衆は自由度を失うことになるし。

…うーん、作者は作品を通して"問い"を提示してるんじゃないかな。そしてそれは常に作品と大衆の間にあって、皆が共有している。

…なるほど、でもそれって現代芸術の話ですよね。さすがに陶磁器と先輩の間に問いはないでしょ。

…うむうむ確かに、でもむかーしむかしの作品には逆に技術がある。ある許されたセオリーの中でいかに新たな表現をするか。そしてそれはきっと、物理学に似ている。

…物理学に似ている?

…我々にはある意味で絶対的なセオリーがある。量子力学シュレディンガー方程式とか、相対性理論とか。そういうセオリーは自然から突きつけられた絶対的なものなんだと思う。でもそのルールの中で新しい物質を作ったり、新しい現象を見つけたりする。

…凝縮、超電導ディラック電子…。

…そうそう、芸術と物理学はある意味で同じような側面を持っているのかもしれない。

 

そうこうしているうちにコーヒー店に入る。先輩は腹が減ったと言いながらパニーニを頬張っている。さっきステーキ食べたのに。

 

 

 2、3日して先輩からある随想が送られてきた。寺田寅彦のものだ。彼は物理学者でありながら夏目漱石門下の文筆家でもあり、科学的に(そしてもちろん文学的に)優れた作品を多く残している。

 

『科学者と芸術家』、

 

一見、真反対の人種のように思われるけれど、その間にも深い類似点があるようだ。彼らはあるセオリーの中で常に己を表現しようとしている。科学者には美への憧憬があり、芸術家には技術への絶対的信頼がある。やはり芸術については何もわからないが、私がシュレディンガー方程式を知らずに電子について語ることができないのと同様に、芸術家だってたくさん勉強して、たくさん練習して、そして背中のない人間像を作るのだろうと思う。

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美術館の中はまるで、何か粘性の高い液体で満たされているようだ。人々はのっぺりのっぺりと歩き、作品の前では足を止め、またのっぺりのっぺりと歩く。その中にあって私は、全くの異物だろう。

でも逆に、私だって科学という作品を常に展示し続けるこの広大な世界をのっぺりのっぺりと歩いている1人の物理学徒なのかもしれないと思ったりもするのである。