サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【夜のノビ・ノビタ(3)】

眠れない夜である。眠れない夜には言葉が溢れてくる。言葉は常に私の中を流れていく、それはまるで未踏の山奥の小川のようであり、もしくは嵐の後の運河のようでもある。日々言葉は私の体を貫き、そしてまた誰かの体を貫いてゆく。

それでも、山奥の小川に留まる石があるように、運河の流れに浮かぶひと葉があるように、言葉は体内に住処を求めたりする。

ある時、溜った言葉たちは口火を切って溢れ出してくるのだ、そしてそれは決まって今日のような静かな夜のことである。

そんな流れることのできなかった言葉たちの供養のために少しだけ散歩をしようと思う。

 

散歩が常にスニーカーやブーツと共にあるかというと決してそうではない。この世界が空間からできているのと同様に時間もこの世界の一部を成している。もちろん時間の旅は空間ほど自由ではないのだけど、その代わりに目を閉じてゆっくりと呼吸すればいつだって過去にゆくことができる。今日は時間の散歩をしよう。

 

"時々会いたくなる、でも多分もう会うことはない人の数"、というのはともすれば人生の深さを決める尺度の1つかもしれない。私にもそういう人が幾らかいて、時には彼らとの思い出を夢想したりする。彼らは常にそこにいて、また過去と現在の間に横たわる時間のぶんだけ遠い存在である。距離が増すにつれ、彼らの輪郭はずっとボヤけていって、しまいにはもう殆ど全てを思い出せなくなるのだけど、ただその声だけはいつまでも耳に残っているような気がする。

 

初恋をどう定義するのか、私は知らない。きっとそれは幸福の定義と同様に一人ひとりに与えられた自由なのだろう。とすれば、私にだって初恋と呼べるそれがある。年上の彼女のどこに惚れたのか今となっては全くわからないが、何かキラキラした柔らかい質感の感情として、今でも心の奥深くに残っている。その質感こそが初恋の唯一つの定義かもしれない。

 

親友というのはまだ幾らかシンプルに思える。そしてそれは初恋と同様、別れてずっと後になってからそう呼べる存在なのかもしれない。ボールを追いかける私を鳥瞰する私が初めて隣でボールを追いかける彼に気付くのかもしれない。今、彼がどこで何をしているのか、私にはわからないけれど、彼が私と同じようにボールを追いかける私たちを眺めているなら素晴らしいなと思う。

 

思い出の中の人が、みんないい人だという考え方は恐らく間違いで、むしろ私の心に深く傷をつけた人や、逆に私が無慈悲に心を抉った相手の方が多いだろう。その傷跡の血が止まり、かさぶたができて、うぶ毛が生えてくることこそ、ヒトが数十年生きる意味だろうと思ったりする。8年前、私の奥深くについた傷にやっとうぶ毛が生えてきた頃だろうか。

 

 

時の散歩道は未舗装だ。道幅は狭く、段差や砂利だらけで落とし穴があったりする。それでも私が時々道を歩くのは、あの頃見逃した野花を見つけたり、ふとした拍子に過去の私に出会えるからだ。

 

目を開ける。高村光太郎の言うように、そこに道はない。人は常に道を作る。時は否応なくそれを強いるし、我々は歯向かう術を知らない。それはある意味不条理だが、また他方、好機かもしれない。

 

 

 

過去の散歩はこのくらいにして、時の道をゆくことにしよう、いつかまた未来の私が帰って来られるように。