【右手には指が4本しかない】
年が明けた。このところ冬将軍は少し影を潜め、例年に比べれば暖かな日が続いているように思われる。私の生活圏にも積雪はなく、安堵する大人な私と残念がる子供な私を感じたりするこの頃だ。
明けましておめでとう。このセリフも人生もう何度目だろうか。しかし何度来ても正月というのは良いもので幾分幸せな気持ちになる。
さて、今回は新年1発目ということもあって、私のブログらしく、わけのわからぬ妄想話を繰り広げたい。今年もカリスマブロガーを目指して雷鳥の如く突き進む所存である。(ここに綴られる妄想はまだまだ氷山の一角である。能ある鷹は爪を隠すのだ、脳のない鷹にも爪は見えないのだが)
唐突だが、あなたの右手に人差し指はあるだろうか?
え?今こうしてケータイを触っているではないか!と仰るかもしれないが、では、どうしてあなたは視覚を信じるのか?
私はあなたの身体について尋ねている。したがってあなたがその命題について何かを示す時にはあなた自身の身体を用いてはならない。(中学生の頃に習った数学の証明問題でも結論を仮定してはならぬと教わったはずだ)
無論、指をパチンと鳴らしてもダメだ。左手で撫ぜてみてもダメ。舌で味わっても鼻で嗅いでみても、それは証明にはならない。
では、他人を使うのはどうか、という話になるが、他人は他人でその認識を証明できない。
ドツボである。このままでは私の(あなたの)右手には人差し指がなくなってしまう。語り得ぬことには沈黙せねばならないのだ…(実はこのパラドキシカルなお話はヴィトゲンシュタインによるものである)
そもそも我々はナゼ、右手人差し指の存在を認めるのだろう?その存在は少し懐疑すれば簡単に揺らぐのに。
人は常に、"ありそうな(そしてあってほしい)世界"を想定し、信仰するのだと最近考えることが多い。世界(またはある現象)に対する解釈というのは複数存在する。そして我々はその中で最も"ありそうな"解釈をある種盲目的に選択している。
身近に言えば、若き日の恋愛などもそうである。観測事実(言葉のやりとりや仕草、好みや噂話)だけを見ればそこには両極端な解釈が複数存在するのに、多くの場合我々は"ありそうな"(場合によってはあってほしい)仮説の1つを選択し、信じ込む。そういう盲信が悲しい結果を生んだという経験は誰にでもあることではないだろうか。
そういう類のことは恋愛以外の人間関係(友情や家族、学校や会社)にも沢山存在するように思われるし、より広く、政治的思想、宗教信仰、自然科学に至るまで同様の形式をとるようにみえる。
しかし常にそこに存在するのは冷淡な観測事実のみであることを忘れてはならない。如何に正反対な解釈意見も同様の事実に立脚し、その事実を論拠とする。
そして"ありそうな、あってほしい"世界は人それぞれ異なっているということも真実のようだ。私のあってほしい世界はあなたのあってほしくない世界かもしれない。
私が"あなたの右手には人差し指がない"と言ったところで、あなたは人差し指の存在する世界を信じるだろう。私が"彼女は悪魔のような女だ"と言ったところで、あなたは彼女が淑女である世界を愛するのだ。
ニュースキャスターの事実とコメンテーターの解釈、教義文言の事実と宗教家の解釈…。
世界は限られた事実と、無限の解釈からできている。そしてそれは時として不可分的であり、複雑怪奇に絡まり合っている。事実と解釈を見誤ることのないように生きていきたいものだ。
冬至を超えて1日は少しずつ長くなるが、まだまだ春は先のようだ。流行病と正月太りには気をつけて。