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サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【生まれたての僕ら〜年の瀬に寄せて〜】

世界がまた1つ歳をとろうとしている。誰が決めたかわからぬ誕生日に、私の部屋だけがその準備をできていないまま、一年が去り、またやってこようとしている。

 

 

さて、また数週間更新できていなかったが、これは明らかに私の怠惰的生活にその要因がある。

しかしながら、その怠惰な毎日の中にも疑問や発見はあり、そのいくつかを下書きに書き溜めているので、気が向けばカタチにしようと思っている。(【アリスとイケメンなわたし】【郵便ポスト貧乏】etc...)

 

 

今回はそういう偏屈な妄想は避けて、年の瀬にブログらしく"今年"を題材に短く収めることにする。

 

 

今年の漢字、というのが毎年発表される。いくら漢字が多くを語るとしても1年を1字で、というのは無謀すぎやしないかと毎年思うのだが、まぁそういうものなのだろう。

 

ふと、(まるでブロガーみたいに)私の1字はと考えたりした。

…"問"だろうか。今年は常に問い、問われ続けていたように思う。誰か(そして何か)が耳元で問いを囁き、私も同じように誰かに囁き続けた。

 

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しかし、考えてもみれば、問いというのは生まれてから今に至るまで常に私の周りに(そして内部に)一定数存在し続けているハズである。ならば何故、私は今年、"問"を挙げたのか…(という問いを耳元で囁くはてなブログはてな?)

 

多分、"問いの加速度"が関係している。問いは年々増えている。そしてそれは、線形とは程遠い割合で。そう、丁度指数関数のように増加し続けている。今年はその時間変化率の変化率、つまり加速度が大きいなと感じた年だったんだろう。

対して、"答えの加速度"の減少も著しい。答えの加速度は指数関数の逆数で小さくなっている。年々答えられる物事は減り続け、それはゼロに漸近する。

 

…さすれば、"問いの数"と"答えの数"が一致していたのはいつのことなのだろう?ぶち当たった疑問に全て答えを付けていられたころはいつなんだろう?

 

もしも"問いの数"も"答えの数"も指数関数に支配されるとすれば(数学的にはその背後に微分方程式が見え、いくつかのパラメタがみえるのだが)

その2つの曲線が交わるのはただ一点、"生まれた瞬間".だけである。この世に生まれた瞬間だけ、私は世界からの(そして私自身からの)問いに完全な回答を与えることができた。

プラトンは言う、人は生まれる前にイデアを見る、と。そしてそれは世界についての完備な解である、と。

また、夢野久作ドグラマグラの中で、胎児の夢を語る。退治は生まれる前に人生の(または人類世界の)全てを夢に見るのだと。

 

もしかすると私が(そしてあなたが)あげたオギャアという産声は悲しみでも喜びでもなく、もっと冷淡でロジカルな何かの完全な解だったかもしれない。

 

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多くの方かわけのわからぬ文章を読まされたと後悔していることだろう。私だってわけのわからぬ文章に時間を費やしているのだから、ご容赦いただきたい。短く収めるなどというのは真っ赤なウソであった。

 

 

 

0歳になれるならばなりたい。ベンジャミンバトンのように生きられるならその方が良いかもしれない。しかし、私は時間を犠牲にしたのと同じだけ、何かを手に入れている。それは0歳の私が決して持たなかった何かであり、きっと時間とは非可換的な何かである。

 

今年手に入れた何かを大切にして、答えなき世界への憂いと仲良く付き合ってゆくことができれば幸せである。来年もまた世界に溢れる問いの数々とゆっくり対峙していきたい。

 

 

火の用心の声が冷え切った街角にパッと明かりを灯した。明日は大晦日だ。年の瀬に風邪など引かぬように。