【夏の車内の言語学】
茹だるように暑い夏がやってきた。セミが日の出から日暮れまで盛んに自己主張する季節である。
さて、今回は電車に乗っていて感じた違和感とその奥にあるロジックについてまたまた妄想していきたいと思う。
"ドアが閉まりまーす"
というフレーズ、電車通学電車通勤の人は聞くことがあるはずだ。車内のほとんどの人には分かりきっていることをわざわざ教えてくれるアナウンスである。
私は通学の際に毎朝毎夕同じ路線を使うのでこのフレーズは一日に何度も聞くことになる。いつ乗っても同じトーンで同じフレーズなので、マニュアルになっているのだろうと考えられる。
ところが、先日いつもとは違う会社の路線に乗った時、
"ドアを閉めまーす"
車掌さんはそう高らかに宣言して、あの閉まるのと開くのとに恐ろしく速さの違いがある扉をゆっくりと閉めたのだ。
なんだろうこの違和感、、、
別にどっちでもいい、というかどうでもいいことなのだが、いかんせん、そういったどうでもいいことが気になってしまう性分なのだ。(それが私をとても生きにくくしていることは私が一番知っている。)
考えてみると、
"ドアが閉まりまーす"
というのは主語+自動詞のSV関係であるのに対し、
"ドアを閉めまーす"
は主語なし他動詞+目的語の関係を取っている。
私はこういう類の文法論などは本当に門外漢なのだが、仕方ないので少し調べてみることにした。
面白いことに、
"ドアが閉まりまーす"
は『主体=客体対立構造』と呼ばれる一方、
"ドアを閉めまーす"
は『主体=客体融合構造』と呼ばれるらしい…(門外漢おじさんが浅薄な知識で解釈しているので間違ってるかも)
また理論の主張では、前者がドアが閉まる電車を俯瞰的に見ているのに対し、後者は電車に乗っている人がドアを閉めているようなイメージで捉えられるということだ。さらに『主体=客体対立構造』は英語的であり、『主体=客体融合構造』は日本語的であるらしい。
個人的には前者の言い方のほうがなんとなく心地よいのだが、いつもそれを聞いているからであろうか。まぁ統計でも取ってみれば、あるいはそこに、日本的感性というのが見えるのではないかなどと妄想したりしている。
車内に響くワンフレーズに対する違和感に、小さなロジックの芽を見つける夏である。盛夏の候、体調には気をつけて。