サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【紀行雑記1-4 ヴェネチアの夕陽】

ケーニヒスベルクの橋問題。オイラーが解決し、グラフ理論の発展につながる一筆書きの問題。ヴェネチアの街はあまりにも有名なこの問題を想起させる。街には細い路地が毛細血管のように広がり、至る所を水路が貫いている。

猫一匹通れるかという路地に立ち、見上げれば赤色の煉瓦造りの先に小さく青い空が見える。

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長方形の広場には人が溢れている。そして人の数と同じくらいのハトが溢れている。サンマルコ広場ヴェネチアのシンボルの一つである。"全ての道がローマに通ず"ように、この入り組んだ迷路のような街の迷い人もいつの間にかこの広場に辿り着く。

鐘の音が鳴る、それに合わせてハトは一斉に飛び上がる。ヴェネチアの、もしくは世界の、何か大切なことを映すような羽ばたきである。

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迷路を彷徨う、少し大きな(といっても車は通れないくらいの)道にはリストランテが軒を連ね、戸口を出たところで沢山の人がワインを飲み、食事を取っている。きっと、外で食事をするのが好きな人種なのだろう。

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細い道に入れば、そこは表通りとは全く異なる風景を見せる。崩れかけのアパートがあり、民家があり、その向こうには水路とゴンドラが見える。人気のないその道の傍らに、小さな花が咲いていた。

 

再びサンマルコ広場に出る。そばの船着場から船に乗り、対岸のサンジョルジョマジョーレ教会を目指す。海抜の低いこの街の景色はまるで川を渡る我々に倒れ込んでくるようである。しかしそれは圧迫というよりは抱擁であり、緊張というよりは安堵に似ている。

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教会はやはり、ひんやりと冷たい。聖堂を抜け、教会に立つ塔を登る。ヴェネチアを一望できる塔。手前に聖堂の丸い屋根が見え、奥にヴェネチアの街が見える。そこから鳥瞰する街並は、驚くべき端正さと信じがたい繊細さを持っており、それが現実であることすら疑ってしまう。水路を行き交うゴンドラの白が小さく光っている。

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街並のエントロピー(乱雑さ)増加という、統計物理学の研究がある。街は時間発展的に乱雑に、まるで生き物のように発達する。私が今踏みしめる網状の迷路は、この街がとても長い間そこにあって、人々とともに生きていることを暗示する。複雑性の中には常に歴史があり、乱雑さの中には常に息づかいがある。

 

 

ヴェネチアを出る船から、夕陽が見えた。その赤さが海抜の低さによるものなのか、街と空のコントラストによるものなのかは判然としないが、とにかくその夕陽は赤く、また見渡す限りの全てを赤く染めていた。

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イタリアの旅も終りを迎えようとしている。

 眼に映る太陽はそのうち日本の空に昇る。私たちはそういう連続性の中に生きている。

 

 

【紀行雑記1-3 小さな国の大きな祈り】

白い一本の線で仕切られた国境を越える。そこに壁はなく、事務的な手続きすらない。

 

私は今、世界一小さな国、バチカンの広場に立っている。敷き詰められた石畳は朝日を反射し、荘厳な鐘の音は15分ごとに時を刻む。名だたる殉教者たちが楕円型の広場を見下ろし、人々は静かに祈りを捧げる。

 

サン・ピエトロ広場。

 

凪のような、風のない時間がそこにはあり、常に清潔に保たれた広場はまるで何百年もの間そこだけ世界から切り取られたような姿をしている。

 

厳重な手荷物チェックを終え、サンピエトロ大聖堂に入る。キリストの総本山。ローマ教皇の住処。高さ50メートルほどの入り口の上にはイエスキリストの像がたっており、眼下を臨んでいる。それはまるで大聖堂を訪れる人々の人生を見透かすようであり、または、苦悩と悔恨を赦すようである。

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入り口を入ると中はひんやりと冷たい。それが物理的な要因からくるものなのか、もしくは精神的な感覚に依存するものなのか、私にはわからないが、すくなくともその"冷たさ"の中に人々の平穏が隠れていることは確かだろう。静寂の中で朝のミサが行われる。灯された蝋燭の火が風のない聖堂に小さく揺れる。

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長い間、本当に長い間、そこで祈りが捧げられてきた。世界一小さな独立国家の、世界一大きな教会で。世界の広さに比べれば人々の祈りはあまりにも小さい。それでも聖堂は存続し、宗教は止むことがない。

その祈りの場にあって、どうして手荷物検査が必要なのか、どうして厳重な警備が必要なのか、そういう類の疑問は、もしかすると実はもっと大きな世界の疑問であり、同時にそれは人々が長きにわたって抱き続ける疑問なのかもしれない。

 

 

 薄暗い大聖堂の向こうに陽に照らされた石畳が小さく見える。出口にはスイスからの衛兵が立っている。彼が守るのは、きっと目には捉えられない何かなのだろう。

再び広場に立てば、祈りという行為が、論理や合理を超越したところにあることを身を以て実感する。

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広場に心地よい風が吹き、教会の鐘が鳴った。

【紀行雑記1-2 ネイプルスイエロー、色と音の哲学】

"太陽の道"と呼ばれるその道は第二次大戦下でムッソリーニがドイツのアウトバーンを真似て作らせたという話を聞く。その長い長い道を左側に太陽を睨みながらひた走る。空気は乾燥し、大地は緩やかな勾配を作りながらどこまでも伸びている。遠くの山嶺には教会の屋根が見え、朝日をいっぱいに浴びている。

 

ローマの外れからナポリを目指してひたすら南下する。山々は少しずつ平地へと変わり、平地は少しずつ海の香りを讃える。

ナポリの新市街の高層ビル群が見え、対照的な旧市街の歴史建築が見える。建築様式や材質の違いはその街が永い間、人と共に生き、人に愛され続けていることを物語る。また振り放け見ればヴェスヴィオ火山が見え、その下に埋もれたポンペイの街を彷彿とする爆発の後が見える。ナポリの乾いた潮風は何千年もの営みを常に眺め続けてきたのだろうか。

 

 

カプリ島ナポリから船で50分ほどの沖合にあるひょうたん型の小さな島である。

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船を降りるとたくさんの"色"が私を出迎えた。

 いくつもの真っ白なボートがエメラルドグリーンの海面に浮かび、浅瀬の波に揺れる。岸壁に立つ木々はいよいよ青く、海を臨む家々は赤や緑で、晴天に映える。

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ネイプルスイエロー。

 

ナポリの伝統色として知られるその色は、強く目を引く黄色である。

 

街を歩けば"音"を聴く。

海に面した広い道には溢れるほどの陽気な会話が飛び交い、側のリストランテではフォークとナイフが踊る。風は心地よく、道行く人々は口笛や鼻歌を歌う。

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哲学者ヴィトゲンシュタインは自著、論理哲学論考の中で"色空間"について述べている。空間はいたるところ"色"に支配され、色のない空間はない。またそれは"音"についても同様である。

刺激的な色と軽やかな音は空間の中で連続性と調和を保ちつつ巧妙に絡み合い、この島を形作っている。その曼荼羅のような空間の中で人々は生き、それ自体すら色音空間の一端を担うのだろうと想像される。この小さな島は、色と音の哲学の上に成り立つのかもしれない。

 

 

一瞬訪れた凪のあと、少し強い風がどこかへ色と音を運んでいった。

 

 

 

【紀行雑記1-1 黒海に浮遊する脳】

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私は紀行文というジャンルをほとんど読んだことがない。土佐日記を紀行文というのなら目に触れたことくらいはあるだろうか。だから私は紀行文というものがどうして存在し、どういう意味を持っているのかということについて、ほとんど何も知らないし、また考えたこともなかった。

 

紀行文は例えば排泄のようなものかもしれない。

 

旅の中でヒトは何かを吸収している。そして吸収には常に排泄がつきものなのだ。知らない街で見た景色、音、匂い、そうしたものを吸収した後に、ふわりと残る質感、それこそ紀行文の存在意義なのだとぼんやり想像したりする。

 

 

さて、私は今、ローマの外れにあるホテルの一室でこの端書を認めている。日本からイタリアまで約14時間のフライトで身体はクタクタのはずなのに時差ボケのためか睡魔はまだやってこない。

大阪から一旦ソウルへ入りトランジットしてイタリアローマへのフライトである。飛行機は小さくも意味ありげな蛇行を繰り返しながらほとんど最短経路をたどって目的地を目指した。機内では英語、イタリア語、韓国語、そして少しの日本語が飛び交い、まるで全ての人種を詰め込んだノアの箱舟のように、高度1000メートルを進む。

 

座席の前には乗客一人一人に割り当てられたモニターがあって、映画やドラマ、音楽やゲームを楽しめるようになっている。

その中に機外カメラという項目がある。それは機体前方と下方に取り付けられた機外カメラの映像をリアルタイムで見ることができるというものだ。

私は長いフライトの中でそのカメラ映像をぼーっと眺めていた。ほとんどの時間、下方には雲海が広がり、前方の映像はほとんど真っ白であったが、ちょうど黒海を抜けてイスタンブールの北部を過ぎるあたりから雲が晴れ、海が見えた。

広大な海を眺めているとどんどんと吸い込まれるような感覚に陥り、海の上でポツンと1人浮いているような気持ちになる。そしてそれは孤独とは全く別物の、なにか高揚感に似た感情を付随し、"小さなワタシと大きなチキュウ"という純然たる真実を論理を超越した方法でもって心に叩きつけてくるようであった。

 

飛行機はさらに進み、やがてイタリア中部の農村地帯が見えてきた。機体は少しずつ高度を落としながら来たる終着地へと突き進む。

私は映像を眺めながら、眼下に広がる農村の小さな家に住む人々を思う。もちろん、私の思いとは裏腹に彼らは今日も全く変わらぬ日常を繰り返している。その事実は、ともすればとても奇妙である。かたや私はまだ見ぬ世界を心待ちに上空を飛んでいるし、かたや彼らはいつもと変わらぬ飛行機の音を聞いて、いつもと変わらぬ生活を送る。それらはたった数百メートルの距離にあるにもかかわらず一瞬たりとも交わることはない。おそらくは一生交わることのない人々に、私は思い馳せるのだ。

 

着陸の時が近づく。まっすぐ伸びた滑走路が見える。それは何かのメタファーかもしれない。機体は滑り込むように、そして至極当たり前のように硬いアスファルトに着地する。長い空の旅の終わりを知らせる音がする。

 

 

私の脳はまだ黒海の上空あたりに浮遊しているように思う。または黒海を抜けた農村の小屋の中でうずくまっているかもしれない。いずれにせよ、どこか知らないところをプカプカと浮いている。

どこかに浮いたままの脳を回収して、ちゃんと首の上に据えてやるために、人は紀行文を書くのかもしれない。

 

 

旅は始まったばかりである。どこかに脳を置き忘れたりしないように。

【打ち上げ花火、下から見るか、下だけ見るか(1)】

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ジメジメとした梅雨が明け、青空に伸びる入道雲が夏の到来を告げる。目が醒めるような緑の陰で沢山の蝉たちが代わる代わる輪唱し、また時折降る夕立に梅雨前線の幻影を見たりする。あくびをする猫を探しに駐車場を散歩する毎日である。

 

 

長らく更新できていなかった(していなかったというべきか)が、カリスマブロガーを諦めたわけではない。その証拠に下書きの欄にはたくさんの草稿が溜まっているし、脳内ではいつだって妄想の大洪水が起きている。ただそのうちのいくつが文章として成立するかというのはまた別問題で、本当に単なる妄想に終わることがほとんどである。

 

無論、文章になったからといって妄想が何かに変身するかと言われればそれは純然たる妄想に他ならないのだけれど、まぁ、自分の中にもブログに書くものとそうでないものを振り分けるフィルターがある。

 

 

さて、今回は(おそらく)今までにあまりなかった視点で花火大会を眺めてみようと思う。あえて花火それ自体には目もくれず、地上の人々を観察しようというのである。無粋至れりのお話ではあるが。

 

打ち上げ花火を眺めていて、ふと、拍手とはどういう文化なのだろう、と考えた。おそらくそれは世界共通の言語であり、感動や賞賛を伝える言葉である。しかし花火を取り上げてみれば両の腕で表される感動の音楽は決して花火師に届くことはない。それでも聴衆は拍手をやめないし、それを誰も疑問に思わない。

拍手はきっと感動の雄叫びに似ている。人が感動したとき、わぁすごい!と叫ぶ代わりに拍手するのだ、君は素晴らしい!と言う代わりに両手を打つのである。

 

 

では、(話はかなり飛躍するが)例えば一度の打ち上げ花火でどれだけの拍手が起こるのだろう。(この問いが得体の知れない気持ち悪さを持っていることを私は知っている、しかしこのブログがそういう気持ち悪さで充満していることをあなただってもう気づいているはずだ)

一度の打ち上げ花火での拍手回数がわかれば原理的には花火大会を通しての"累計拍手回数"だって計算できるはずだ。

 

 

では、情趣の反対を突き進むフェルミ推定を始めよう。タイトルは

"打ち上げ花火、下から見るか、下だけ見るか"

といったところだろうか。

 

ただし、今回は少し統計学の知識を前提とする。しかしそういう瑣末な問題は時として結論に至るまでのモチベーションを削いでしまうので、読み飛ばしたい方はアルファベットで示された条件だけを読んでいただければ良い。

 

【拍手の統計学

1、人はいつ拍手するか。

具体的な計算の戦略を立てる前に下準備をしておこう。拍手の回数を推定するためには人がどんな時にまたどのくらい拍手をするか、について整理する必要がある。

例えば花火が打ち上がり、破裂する前に拍手を始める人はほとんどいないだろう。(こんな人はむしろ何かを悟っているのかも知れないが)

ということで、拍手を始めるのは花火が破裂してからである。(これは多分、後々t=0みたいな条件になりそう)

では花火が破裂した瞬間に一斉にみんなが拍手し始めるかというと、そういうわけでもない。もちろんある程度の人は天高く開く大輪の花に感動し、拍手し始めるだろうが、ある程度の人は一旦あっけにとられて、遅れてくる爆音とともに拍手を始めるだろう。そしてまたある程度の人は花火が占領した一角をまた闇に返した後、(周りにつられて)やっと気がついて拍手を始める。

つまり、拍手のスタートには個人差がある。

では、拍手の強さや時間はどうだろう。ある人が拍手し始めてからし終わるまで常に同じつよさというわけではない。(と思いたい)

拍手始め!から拍手終わり!の間のどこかに拍手最大!があってそこへ至るまでの変化は連続的である。(と思いたい)

さらに拍手始め!と拍手終わり!が対照的だ。(と思いたい)

 

…ということで、我々は以降、

A、拍手の始まりには個人差がある。

B、ある人の拍手の強さは正規分布に従う。

ことを仮定する。(少々強引な仮定ではあるが)

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2、個人差の統計分布

では拍手始めの個人差はどのようになっているのだろう。先ほども述べたように花火に対してすぐに拍手を始めるせっかちな人(応答が早い人)もいれば、もう花火が消えてから(周りにつられて)拍手を始める人(応答が遅い人)もいる。

ここで注意したいのはそういう応答が早い人や応答が遅い人は全体に対して少数であるということだ。

また非常に人数が多いことから、応答時間に対する人数の分布(横軸に花火が破裂してからの時間、縦軸に時間ごとに拍手を始める人の人数)は連続関数になるとかんがえる。

こうすると、その関数はどこかで最大値(つまり拍手を始める人が1番多いタイミング)が存在することになり、この関数は凸性を持つことが示唆される。

拍手をしている時間がみんな同じだとすると、この"拍手を始める時刻"というのは個人の"拍手が最大になる時刻"を平行移動したものに過ぎないから、結局、

 

C、ある人が拍手している時間は一定。(仮定)

D、拍手を最大にする人が1番多いタイミングが存在する。

 

ことがわかる。

ここまでで、拍手の統計分布に対する条件が定まったのであとはこれをうまいこと関数にすればいい。

 

 

…ふぅ、少し疲れて来たので今回はここまでにしよう。近いうちに2回目をあげるつもりだし、2、3回で完結させるつもりである。

次回は、

・拍手の強さの分布関数が知ってる関数でかけそうなこと。

・拍手の強さが放射性物質に似ていること。

についてお話しする。

 

 

盛夏の候、熱中症には気をつけて。

【夜のノビ・ノビタ(3)】

眠れない夜である。眠れない夜には言葉が溢れてくる。言葉は常に私の中を流れていく、それはまるで未踏の山奥の小川のようであり、もしくは嵐の後の運河のようでもある。日々言葉は私の体を貫き、そしてまた誰かの体を貫いてゆく。

それでも、山奥の小川に留まる石があるように、運河の流れに浮かぶひと葉があるように、言葉は体内に住処を求めたりする。

ある時、溜った言葉たちは口火を切って溢れ出してくるのだ、そしてそれは決まって今日のような静かな夜のことである。

そんな流れることのできなかった言葉たちの供養のために少しだけ散歩をしようと思う。

 

散歩が常にスニーカーやブーツと共にあるかというと決してそうではない。この世界が空間からできているのと同様に時間もこの世界の一部を成している。もちろん時間の旅は空間ほど自由ではないのだけど、その代わりに目を閉じてゆっくりと呼吸すればいつだって過去にゆくことができる。今日は時間の散歩をしよう。

 

"時々会いたくなる、でも多分もう会うことはない人の数"、というのはともすれば人生の深さを決める尺度の1つかもしれない。私にもそういう人が幾らかいて、時には彼らとの思い出を夢想したりする。彼らは常にそこにいて、また過去と現在の間に横たわる時間のぶんだけ遠い存在である。距離が増すにつれ、彼らの輪郭はずっとボヤけていって、しまいにはもう殆ど全てを思い出せなくなるのだけど、ただその声だけはいつまでも耳に残っているような気がする。

 

初恋をどう定義するのか、私は知らない。きっとそれは幸福の定義と同様に一人ひとりに与えられた自由なのだろう。とすれば、私にだって初恋と呼べるそれがある。年上の彼女のどこに惚れたのか今となっては全くわからないが、何かキラキラした柔らかい質感の感情として、今でも心の奥深くに残っている。その質感こそが初恋の唯一つの定義かもしれない。

 

親友というのはまだ幾らかシンプルに思える。そしてそれは初恋と同様、別れてずっと後になってからそう呼べる存在なのかもしれない。ボールを追いかける私を鳥瞰する私が初めて隣でボールを追いかける彼に気付くのかもしれない。今、彼がどこで何をしているのか、私にはわからないけれど、彼が私と同じようにボールを追いかける私たちを眺めているなら素晴らしいなと思う。

 

思い出の中の人が、みんないい人だという考え方は恐らく間違いで、むしろ私の心に深く傷をつけた人や、逆に私が無慈悲に心を抉った相手の方が多いだろう。その傷跡の血が止まり、かさぶたができて、うぶ毛が生えてくることこそ、ヒトが数十年生きる意味だろうと思ったりする。8年前、私の奥深くについた傷にやっとうぶ毛が生えてきた頃だろうか。

 

 

時の散歩道は未舗装だ。道幅は狭く、段差や砂利だらけで落とし穴があったりする。それでも私が時々道を歩くのは、あの頃見逃した野花を見つけたり、ふとした拍子に過去の私に出会えるからだ。

 

目を開ける。高村光太郎の言うように、そこに道はない。人は常に道を作る。時は否応なくそれを強いるし、我々は歯向かう術を知らない。それはある意味不条理だが、また他方、好機かもしれない。

 

 

 

過去の散歩はこのくらいにして、時の道をゆくことにしよう、いつかまた未来の私が帰って来られるように。

 

 

【人類総ハゲ時代の予兆】

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冬と春の間にはもう1つ季節があるらしく、冬が終わってもまだまだ春は来ない。それはまるで桜のモラトリアムのようである。

 

さて、数回に渡りうどんについて述べてきた。相変わらず私の生活にはうどんが溢れている。(自宅での食事の8割はうどんだ)

しかし、時に深い愛情が憎しみに変わるように、うどんのことだけを考えすぎるのはあまり良いことではないとも思うので(決して日々うどんのことだけを考えているわけでもないが)

今回は、私がかなり前から気になっている"体毛のナゾ"について、現在辿り着いているところまでお話する。(したがってこの問題に対する答えは未だ得られておらず、みなさんの才ある頭脳にチカラをお借りしたい)

 

 

なぜ、体毛は生えるのか?

 

問題はそれだけである。そしてそれこそ、私を長らく悩ませてい至高の難問である。(ただし、私は生物学の高等教育を受けておらず、知識自体は義務教育の域を出ない)

え、そんなのは簡単?

 

身を守るため

 

と答える方、では尋ねる、

 

何から身を守るのか?

 

この問いは幾分難しい。

最初私は石や木の実などからの被害、つまり物理的攻撃から身を守るためだと思っていた。(以下、"木の実仮説"と呼ぶ)

対して、先日、新たな仮説が提案された。紫外線から身を守るというのだ。(以下、"紫外線仮説"と呼ぶ)

各々の主張について簡単に紹介しよう。

 

『木の実仮説』

(主張)木の実が頭上から落ちてくる等の危険から身を守る。

(論拠)顎髭についても物理的攻撃から身を守るという仮説は頷ける。顎を殴られると直接脳に衝撃が伝わるからだ。(ボクサーが顎を守るのはそのためだ)

(問題点)そうすると頭髪などはすでに必要ないのでは?

 

『紫外線仮説』

(主張)紫外線から皮膚を守るため体毛がある。

(論拠)熱帯地域(太陽光の強い地域)の人々は毛が濃く、寒冷地域の人々は毛が薄い。

(問題点)ではどうして体全体ではなく一部に残っているのか。

 

 

どう感じるだろうか?他にも"保温仮説"や"木の実-紫外線仮説"などを考えたが、なんとなくしっくりこない。

ただ、確実に言えそうなことは、体毛が"足し算"ではなく"引き算"されているということである。すなわち、必要な部分に毛が生えたのではなく、不要な部分の毛がなくなった、と考える方が進化論的に見てもたしからしいということである。

となると、いくつか面白い可能性が示唆される。

・文明を手に入れた生物は体毛が不要になり、減少してくるのではないか。

・よく語られる宇宙人はツルツルの肌であるが、ハビタブルゾーンなどを考えた場合、宇宙人はむしろ剛毛なのではないか。ツルツルだということは高度に文明が発達している証かもしれない。

 

 

もう少し異なる観点から見ると、以下のような疑問も湧いてくる。すなわち、

 

果たして本当に自然選択のみによって人類は体毛を減らしたか。

 

ということである。

実はこの問いはより広く、

 

・自然選択のみによって現在の生物進化を語りうるか。

・自然選択は常に生存に対して最適か。

 

という本質的な問題にも繋がってくる。

これは社会進化論や赤の女王仮説という見方をすれば、経済学や(軍事的意味での)政治学や歴史学などにも波及するのではと妄想したりする。

 

 とどのつまり、

"文明の進化に伴いヒトの体毛は減少する"

という仮説が立つことになる。ともすれば人間もいずれ全員ハゲになるのではないだろうか?

ハゲオヤジを馬鹿にするのは早めにやめておいた方が良いかもしれない。

 

 

不学者の妄想ゆえ、真偽のほどは定かでないが、ある意味において神秘的かつ哲学的な意義を持つような気もしている。

 

 

三寒四温の季節の変わり目、風邪などひかぬように。