サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【紀行雑記1-1 黒海に浮遊する脳】

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私は紀行文というジャンルをほとんど読んだことがない。土佐日記を紀行文というのなら目に触れたことくらいはあるだろうか。だから私は紀行文というものがどうして存在し、どういう意味を持っているのかということについて、ほとんど何も知らないし、また考えたこともなかった。

 

紀行文は例えば排泄のようなものかもしれない。

 

旅の中でヒトは何かを吸収している。そして吸収には常に排泄がつきものなのだ。知らない街で見た景色、音、匂い、そうしたものを吸収した後に、ふわりと残る質感、それこそ紀行文の存在意義なのだとぼんやり想像したりする。

 

 

さて、私は今、ローマの外れにあるホテルの一室でこの端書を認めている。日本からイタリアまで約14時間のフライトで身体はクタクタのはずなのに時差ボケのためか睡魔はまだやってこない。

大阪から一旦ソウルへ入りトランジットしてイタリアローマへのフライトである。飛行機は小さくも意味ありげな蛇行を繰り返しながらほとんど最短経路をたどって目的地を目指した。機内では英語、イタリア語、韓国語、そして少しの日本語が飛び交い、まるで全ての人種を詰め込んだノアの箱舟のように、高度1000メートルを進む。

 

座席の前には乗客一人一人に割り当てられたモニターがあって、映画やドラマ、音楽やゲームを楽しめるようになっている。

その中に機外カメラという項目がある。それは機体前方と下方に取り付けられた機外カメラの映像をリアルタイムで見ることができるというものだ。

私は長いフライトの中でそのカメラ映像をぼーっと眺めていた。ほとんどの時間、下方には雲海が広がり、前方の映像はほとんど真っ白であったが、ちょうど黒海を抜けてイスタンブールの北部を過ぎるあたりから雲が晴れ、海が見えた。

広大な海を眺めているとどんどんと吸い込まれるような感覚に陥り、海の上でポツンと1人浮いているような気持ちになる。そしてそれは孤独とは全く別物の、なにか高揚感に似た感情を付随し、"小さなワタシと大きなチキュウ"という純然たる真実を論理を超越した方法でもって心に叩きつけてくるようであった。

 

飛行機はさらに進み、やがてイタリア中部の農村地帯が見えてきた。機体は少しずつ高度を落としながら来たる終着地へと突き進む。

私は映像を眺めながら、眼下に広がる農村の小さな家に住む人々を思う。もちろん、私の思いとは裏腹に彼らは今日も全く変わらぬ日常を繰り返している。その事実は、ともすればとても奇妙である。かたや私はまだ見ぬ世界を心待ちに上空を飛んでいるし、かたや彼らはいつもと変わらぬ飛行機の音を聞いて、いつもと変わらぬ生活を送る。それらはたった数百メートルの距離にあるにもかかわらず一瞬たりとも交わることはない。おそらくは一生交わることのない人々に、私は思い馳せるのだ。

 

着陸の時が近づく。まっすぐ伸びた滑走路が見える。それは何かのメタファーかもしれない。機体は滑り込むように、そして至極当たり前のように硬いアスファルトに着地する。長い空の旅の終わりを知らせる音がする。

 

 

私の脳はまだ黒海の上空あたりに浮遊しているように思う。または黒海を抜けた農村の小屋の中でうずくまっているかもしれない。いずれにせよ、どこか知らないところをプカプカと浮いている。

どこかに浮いたままの脳を回収して、ちゃんと首の上に据えてやるために、人は紀行文を書くのかもしれない。

 

 

旅は始まったばかりである。どこかに脳を置き忘れたりしないように。

【打ち上げ花火、下から見るか、下だけ見るか(1)】

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ジメジメとした梅雨が明け、青空に伸びる入道雲が夏の到来を告げる。目が醒めるような緑の陰で沢山の蝉たちが代わる代わる輪唱し、また時折降る夕立に梅雨前線の幻影を見たりする。あくびをする猫を探しに駐車場を散歩する毎日である。

 

 

長らく更新できていなかった(していなかったというべきか)が、カリスマブロガーを諦めたわけではない。その証拠に下書きの欄にはたくさんの草稿が溜まっているし、脳内ではいつだって妄想の大洪水が起きている。ただそのうちのいくつが文章として成立するかというのはまた別問題で、本当に単なる妄想に終わることがほとんどである。

 

無論、文章になったからといって妄想が何かに変身するかと言われればそれは純然たる妄想に他ならないのだけれど、まぁ、自分の中にもブログに書くものとそうでないものを振り分けるフィルターがある。

 

 

さて、今回は(おそらく)今までにあまりなかった視点で花火大会を眺めてみようと思う。あえて花火それ自体には目もくれず、地上の人々を観察しようというのである。無粋至れりのお話ではあるが。

 

打ち上げ花火を眺めていて、ふと、拍手とはどういう文化なのだろう、と考えた。おそらくそれは世界共通の言語であり、感動や賞賛を伝える言葉である。しかし花火を取り上げてみれば両の腕で表される感動の音楽は決して花火師に届くことはない。それでも聴衆は拍手をやめないし、それを誰も疑問に思わない。

拍手はきっと感動の雄叫びに似ている。人が感動したとき、わぁすごい!と叫ぶ代わりに拍手するのだ、君は素晴らしい!と言う代わりに両手を打つのである。

 

 

では、(話はかなり飛躍するが)例えば一度の打ち上げ花火でどれだけの拍手が起こるのだろう。(この問いが得体の知れない気持ち悪さを持っていることを私は知っている、しかしこのブログがそういう気持ち悪さで充満していることをあなただってもう気づいているはずだ)

一度の打ち上げ花火での拍手回数がわかれば原理的には花火大会を通しての"累計拍手回数"だって計算できるはずだ。

 

 

では、情趣の反対を突き進むフェルミ推定を始めよう。タイトルは

"打ち上げ花火、下から見るか、下だけ見るか"

といったところだろうか。

 

ただし、今回は少し統計学の知識を前提とする。しかしそういう瑣末な問題は時として結論に至るまでのモチベーションを削いでしまうので、読み飛ばしたい方はアルファベットで示された条件だけを読んでいただければ良い。

 

【拍手の統計学

1、人はいつ拍手するか。

具体的な計算の戦略を立てる前に下準備をしておこう。拍手の回数を推定するためには人がどんな時にまたどのくらい拍手をするか、について整理する必要がある。

例えば花火が打ち上がり、破裂する前に拍手を始める人はほとんどいないだろう。(こんな人はむしろ何かを悟っているのかも知れないが)

ということで、拍手を始めるのは花火が破裂してからである。(これは多分、後々t=0みたいな条件になりそう)

では花火が破裂した瞬間に一斉にみんなが拍手し始めるかというと、そういうわけでもない。もちろんある程度の人は天高く開く大輪の花に感動し、拍手し始めるだろうが、ある程度の人は一旦あっけにとられて、遅れてくる爆音とともに拍手を始めるだろう。そしてまたある程度の人は花火が占領した一角をまた闇に返した後、(周りにつられて)やっと気がついて拍手を始める。

つまり、拍手のスタートには個人差がある。

では、拍手の強さや時間はどうだろう。ある人が拍手し始めてからし終わるまで常に同じつよさというわけではない。(と思いたい)

拍手始め!から拍手終わり!の間のどこかに拍手最大!があってそこへ至るまでの変化は連続的である。(と思いたい)

さらに拍手始め!と拍手終わり!が対照的だ。(と思いたい)

 

…ということで、我々は以降、

A、拍手の始まりには個人差がある。

B、ある人の拍手の強さは正規分布に従う。

ことを仮定する。(少々強引な仮定ではあるが)

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2、個人差の統計分布

では拍手始めの個人差はどのようになっているのだろう。先ほども述べたように花火に対してすぐに拍手を始めるせっかちな人(応答が早い人)もいれば、もう花火が消えてから(周りにつられて)拍手を始める人(応答が遅い人)もいる。

ここで注意したいのはそういう応答が早い人や応答が遅い人は全体に対して少数であるということだ。

また非常に人数が多いことから、応答時間に対する人数の分布(横軸に花火が破裂してからの時間、縦軸に時間ごとに拍手を始める人の人数)は連続関数になるとかんがえる。

こうすると、その関数はどこかで最大値(つまり拍手を始める人が1番多いタイミング)が存在することになり、この関数は凸性を持つことが示唆される。

拍手をしている時間がみんな同じだとすると、この"拍手を始める時刻"というのは個人の"拍手が最大になる時刻"を平行移動したものに過ぎないから、結局、

 

C、ある人が拍手している時間は一定。(仮定)

D、拍手を最大にする人が1番多いタイミングが存在する。

 

ことがわかる。

ここまでで、拍手の統計分布に対する条件が定まったのであとはこれをうまいこと関数にすればいい。

 

 

…ふぅ、少し疲れて来たので今回はここまでにしよう。近いうちに2回目をあげるつもりだし、2、3回で完結させるつもりである。

次回は、

・拍手の強さの分布関数が知ってる関数でかけそうなこと。

・拍手の強さが放射性物質に似ていること。

についてお話しする。

 

 

盛夏の候、熱中症には気をつけて。

【夜のノビ・ノビタ(3)】

眠れない夜である。眠れない夜には言葉が溢れてくる。言葉は常に私の中を流れていく、それはまるで未踏の山奥の小川のようであり、もしくは嵐の後の運河のようでもある。日々言葉は私の体を貫き、そしてまた誰かの体を貫いてゆく。

それでも、山奥の小川に留まる石があるように、運河の流れに浮かぶひと葉があるように、言葉は体内に住処を求めたりする。

ある時、溜った言葉たちは口火を切って溢れ出してくるのだ、そしてそれは決まって今日のような静かな夜のことである。

そんな流れることのできなかった言葉たちの供養のために少しだけ散歩をしようと思う。

 

散歩が常にスニーカーやブーツと共にあるかというと決してそうではない。この世界が空間からできているのと同様に時間もこの世界の一部を成している。もちろん時間の旅は空間ほど自由ではないのだけど、その代わりに目を閉じてゆっくりと呼吸すればいつだって過去にゆくことができる。今日は時間の散歩をしよう。

 

"時々会いたくなる、でも多分もう会うことはない人の数"、というのはともすれば人生の深さを決める尺度の1つかもしれない。私にもそういう人が幾らかいて、時には彼らとの思い出を夢想したりする。彼らは常にそこにいて、また過去と現在の間に横たわる時間のぶんだけ遠い存在である。距離が増すにつれ、彼らの輪郭はずっとボヤけていって、しまいにはもう殆ど全てを思い出せなくなるのだけど、ただその声だけはいつまでも耳に残っているような気がする。

 

初恋をどう定義するのか、私は知らない。きっとそれは幸福の定義と同様に一人ひとりに与えられた自由なのだろう。とすれば、私にだって初恋と呼べるそれがある。年上の彼女のどこに惚れたのか今となっては全くわからないが、何かキラキラした柔らかい質感の感情として、今でも心の奥深くに残っている。その質感こそが初恋の唯一つの定義かもしれない。

 

親友というのはまだ幾らかシンプルに思える。そしてそれは初恋と同様、別れてずっと後になってからそう呼べる存在なのかもしれない。ボールを追いかける私を鳥瞰する私が初めて隣でボールを追いかける彼に気付くのかもしれない。今、彼がどこで何をしているのか、私にはわからないけれど、彼が私と同じようにボールを追いかける私たちを眺めているなら素晴らしいなと思う。

 

思い出の中の人が、みんないい人だという考え方は恐らく間違いで、むしろ私の心に深く傷をつけた人や、逆に私が無慈悲に心を抉った相手の方が多いだろう。その傷跡の血が止まり、かさぶたができて、うぶ毛が生えてくることこそ、ヒトが数十年生きる意味だろうと思ったりする。8年前、私の奥深くについた傷にやっとうぶ毛が生えてきた頃だろうか。

 

 

時の散歩道は未舗装だ。道幅は狭く、段差や砂利だらけで落とし穴があったりする。それでも私が時々道を歩くのは、あの頃見逃した野花を見つけたり、ふとした拍子に過去の私に出会えるからだ。

 

目を開ける。高村光太郎の言うように、そこに道はない。人は常に道を作る。時は否応なくそれを強いるし、我々は歯向かう術を知らない。それはある意味不条理だが、また他方、好機かもしれない。

 

 

 

過去の散歩はこのくらいにして、時の道をゆくことにしよう、いつかまた未来の私が帰って来られるように。

 

 

【人類総ハゲ時代の予兆】

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冬と春の間にはもう1つ季節があるらしく、冬が終わってもまだまだ春は来ない。それはまるで桜のモラトリアムのようである。

 

さて、数回に渡りうどんについて述べてきた。相変わらず私の生活にはうどんが溢れている。(自宅での食事の8割はうどんだ)

しかし、時に深い愛情が憎しみに変わるように、うどんのことだけを考えすぎるのはあまり良いことではないとも思うので(決して日々うどんのことだけを考えているわけでもないが)

今回は、私がかなり前から気になっている"体毛のナゾ"について、現在辿り着いているところまでお話する。(したがってこの問題に対する答えは未だ得られておらず、みなさんの才ある頭脳にチカラをお借りしたい)

 

 

なぜ、体毛は生えるのか?

 

問題はそれだけである。そしてそれこそ、私を長らく悩ませてい至高の難問である。(ただし、私は生物学の高等教育を受けておらず、知識自体は義務教育の域を出ない)

え、そんなのは簡単?

 

身を守るため

 

と答える方、では尋ねる、

 

何から身を守るのか?

 

この問いは幾分難しい。

最初私は石や木の実などからの被害、つまり物理的攻撃から身を守るためだと思っていた。(以下、"木の実仮説"と呼ぶ)

対して、先日、新たな仮説が提案された。紫外線から身を守るというのだ。(以下、"紫外線仮説"と呼ぶ)

各々の主張について簡単に紹介しよう。

 

『木の実仮説』

(主張)木の実が頭上から落ちてくる等の危険から身を守る。

(論拠)顎髭についても物理的攻撃から身を守るという仮説は頷ける。顎を殴られると直接脳に衝撃が伝わるからだ。(ボクサーが顎を守るのはそのためだ)

(問題点)そうすると頭髪などはすでに必要ないのでは?

 

『紫外線仮説』

(主張)紫外線から皮膚を守るため体毛がある。

(論拠)熱帯地域(太陽光の強い地域)の人々は毛が濃く、寒冷地域の人々は毛が薄い。

(問題点)ではどうして体全体ではなく一部に残っているのか。

 

 

どう感じるだろうか?他にも"保温仮説"や"木の実-紫外線仮説"などを考えたが、なんとなくしっくりこない。

ただ、確実に言えそうなことは、体毛が"足し算"ではなく"引き算"されているということである。すなわち、必要な部分に毛が生えたのではなく、不要な部分の毛がなくなった、と考える方が進化論的に見てもたしからしいということである。

となると、いくつか面白い可能性が示唆される。

・文明を手に入れた生物は体毛が不要になり、減少してくるのではないか。

・よく語られる宇宙人はツルツルの肌であるが、ハビタブルゾーンなどを考えた場合、宇宙人はむしろ剛毛なのではないか。ツルツルだということは高度に文明が発達している証かもしれない。

 

 

もう少し異なる観点から見ると、以下のような疑問も湧いてくる。すなわち、

 

果たして本当に自然選択のみによって人類は体毛を減らしたか。

 

ということである。

実はこの問いはより広く、

 

・自然選択のみによって現在の生物進化を語りうるか。

・自然選択は常に生存に対して最適か。

 

という本質的な問題にも繋がってくる。

これは社会進化論や赤の女王仮説という見方をすれば、経済学や(軍事的意味での)政治学や歴史学などにも波及するのではと妄想したりする。

 

 とどのつまり、

"文明の進化に伴いヒトの体毛は減少する"

という仮説が立つことになる。ともすれば人間もいずれ全員ハゲになるのではないだろうか?

ハゲオヤジを馬鹿にするのは早めにやめておいた方が良いかもしれない。

 

 

不学者の妄想ゆえ、真偽のほどは定かでないが、ある意味において神秘的かつ哲学的な意義を持つような気もしている。

 

 

三寒四温の季節の変わり目、風邪などひかぬように。

【うどんを数学する(3)マシュマロとゴムの間】

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三寒四温、芯まで冷える日があると思えば、まるで地球全体がぬるま湯に浸かったかのような暖かな日もある。脇を吹き抜ける風はどこか知らない街へ春を運んでいるのだろうか。

 

私が更新を怠っている間、私やその周りの世界にはいろいろなことがあった。それはまた、改めて書きたいと思う。

 

さて、第3部まできた。予定では現在三分の一くらいが終わっていて、実はすでに最終部まで書き上げている。現在は検算の段階である。

今回は、うどんのコシ、に対する考察である。(変分原理のあたり以外は)さほど難しくはないはずなので、余裕のある方は数式まで読んでみて、おいお前、間違ってるぞ!と指摘していただきたい。

それでは…

 

【うどん数理解析】

 

6、うどん体積とうどん密度

うどんのコシを評価する前に、うどんの基礎的な数をいくつか導入しておく。まずは体積…

 

V≡V(t)=a*b*x

          =a*ρa*x

          =ρxa(t)^2

 

となる。最後の一行は体積が時間依存することを示している。ここで、要請④より、xは時間依存しない定数であるから、体積は結局、a(t)のみを独立変数としてとる。

次に、これを用いてうどん密度を定義する。

 

d≡d(t)=m/V(t)

 

ここでmはうどん質量である。今の議論に関してオカシイなと思われる方もいるかもしれない。どうして体積は大きくなるのに質量は一定なのだと。

今回はうどんそれ自体にダシが染み込んで体積が大きくなるのか、そもそも分子間距離が大きくなって体積が大きくなるのかは定かではない。したがってこの仮定は間違っている可能性もあるし、あっている可能性もある。

しかしながら、相手にしているダシは理想化されているので都合の良いように解釈して良いことにしよう。瑣末なことに目をやるよりも大きな結果を望むべきである。(斯様な議論はある意味邪道であるが、これにイチイチ目くじらを立てていては私の書く記事などほとんど読むに値しないものになってしまう)

それでは、やっと、コシを考えることにしよう。

 

7、コシをどう考えるか?

コシをどう扱うか、これはこの先の解析の難易を決定する微妙な問題である。ここでは、"極限"の考え方を導入しよう。

この"極限"という概念、早くは高校生でも習うもので、噛み砕いて言えば、"無限"とか"限りなく近づく"という概念だと考えて貰えれば良い。(数学好きのキモチワルイ方々はεδなどのお話をされるかもしれないが、残念なことに私はさる才能ある方々とは異なるので平易に理解し得る範囲に議論を留める)

私はコシと密度を関連付けることにした。つまり、コシをαとすると

 

うどんがめちゃめちゃ硬い時

d(t)→∞  ⇒  α→∞

うどんがめちゃめちゃ柔らかい時

d(t)→0  ⇒  α→0

 

となるような極限を条件として導入しようというわけである。あとはこの条件を満たし、現象を説明するに足るような関数(写像)で結んでやれば良い。最も簡単な関数が良いので、

 

α≡α(t)=Bd(t)

 

としよう。ここでBは"コシ係数"とし、"ある密度のうどんがどれだけのコシを持つか"という度合いを示すと理解する。無論、このコシ係数は材質や料理過程に依存するが、時刻には依存しない定数である。

 

こうして、コシを数学的に定義することができた。あとは、αからd、dからV、Vからaと戻っていけばある時刻に人が感じるコシを計算することができる。(αをtだけの関数として定めることはできるが、実はこれは今回の問題を達成するときには不要な議論なので割愛する)

 

 

8、コシと美味しさ

最後に、コシと美味しさがどう関係するかを定めることにしよう。ここでは熱力学などで出てくる"変分原理"の考え方を用いることにしよう。といっても難解な計算を振りかざすのではなく、現象に即した数学を考えると結果的に変分原理で表すことができたというようなイメージである。(特に今回は多変数関数に対する偏微分係数について考える)

 

・ゴムみたいなうどんの時、もちろん美味しさは減少する。

・逆にマシュマロみたいなうどんの時、この時もまた美味しさは減少する。

 

したがって、うどんの美味しさはあるコシα(max)に対して最大値を取るはずであり、これは、

 

∂U/∂α|(α=α(max))  =  0

 

を意味する。(この辺りの議論は少し難しいので理解不可能だと思えば飛ばしていただいて構わない、ちなみに同じような手法を完全熱力学関数についての議論の中で見ることができる)

さて、斯様な条件を満たす関数はどんなだろうか?例えばさらに、"1番美味しいコシから少し柔らかくなる場合と少し硬くなる場合で美味しさの減少は等しい"と考えるならば、

この条件を満足する関数は二次関数が良いだろう。(あの、高校一年生で習う上に凸の関数である)

つまり、

 

U  ∝  -(α-α(max))^2

 

U(α)  =  -C(α-α(max))^2+Cα(max)^2

 

と書くことができる。ここでCは比例定数であり、+以降の項は条件を満たすための切片である。

 

 

ふぅ、こうしてコシを定式化することに成功した。次の敵はのどごしである。

そしてそのあと、コシとのどごしの関係を見ることにする。

 

長い道のりである。しかし、最も美しい景色が高山の頂や海底深くにしか存在しないのと同様に、何か面白い結果を得るには地道な計算が必要不可欠である。もうしばらくお付き合い頂きたい。

 

季節の変わり目、体調には気をつけて。

【うどんを数学する(2)太ること】

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さて、飽きられる前に(というよりは私が飽きる前に)一連の思考を書ききってしまおう。今回はうどん数理解析の第2部である。

この回の目標は、

・うどんがのびることを数学的に扱う。

きしめん率を導入する。

ことである。今回は非常に平易な回なのでゆるゆると進めていこう。

 

【うどん数理解析】

 

4、うどんそれ自体を見ること

前回は、うどん関数なる訳の分からぬものを導入した。(うどんを数学するの(1)です)

ところで、ものごとはいくつかの階層により成立している。丁度それは、私を境目にして私を作り上げる小さな臓器があり、それを作り上げる細胞があり、それを作り上げる分子があり…というように。または、私は大学の一員であり、大学は社会の一員であり、社会は世界の一員である…というように。

何が言いたいかというと、たとえうどん関数などというものを作り、それによってうどんと幸福度を結べたとしても、それらはまだうどんそれ自体については何も教えてくれないぞ!ということだ。

前回美味しさと幸福度を結んだのと同じように、今回は時刻とうどんを結び、次回から数回はうどんと美味しさを結ぶ。

こうすることでやっと、時刻と幸福度を俯瞰して知ることができる。なかなか長い道のりである。

 

5、うどん一本の状態

以下、うどんを特徴づける変数をいくつか導入する。まずは、要請④より、

 

x≡うどんの長さ

a、b≡うどん断面の2辺それぞれの長さ

 

と定義する。ここで非常に重要な仮定を一つ。

 

x≫a、b

 

を置くことにしよう。この仮定は、

 

【たとえa、bが時刻によって変化しても、xは変化しない。つまり、xは時刻に対しては定数】(以下、単に定数というときは時刻に依存しないことを指すことにする)

 

であることを主張するものだ。

 

ところで、"きしめんってどっからがきしめんやねん!"と思ったことはないだろうか?そういう不安を解消するために続いては、"きしめん率"を導入する。先ずは表式

 

ρ≡b/a

 

これは断面の一辺に対して、他方の辺がどのくらい長いかの比率を示す数値で、今回この値は定数であるとする。(但し、対称性や極限条件などには深入りせず、単に計算上有用な量という見方をする)

実はこの"きしめん率"は単にどのくらいきしめんかを示す数値であると同時に、この先の議論を非常に簡単にしてくれる魔法の数なのである。

さて、とりあえずうどん自体に対する数値は定義し終わった。

 

 

5、うどんがのびる

うどんがのびるのは、何故か?…私はこの問いについて確信めいた何かを得たことはない。それは多分化学的な作用なのだろうけど、そもそものびたうどんを前にして"このうどん、どうしてのびたのだろう?"と考えるのはあまりにも馬鹿げている。何故なら、のびた原因は何故のびたかを考えているからだから。しかし、こののびるうどんを数式で表現することはさほど難しくない。

 

((ここからの数行は数学物理に興味のある私と同類のキモチワルイ方々のみ読んでいただければ良い)実はこの"のび"、どの関数で表現するか少し迷った。と、いうのも、要請から時刻に対して断面積は強増加であることはまま自明なのだが、どの関数がよいものか…。

そこで今回は実際のうどんを観察することはあえてやめにして(物理ではあり得ないこと)、処理しやすい関数で置くことにした。その名も、一次関数…)

 

 

うどんののびを

 

"うどんが太る"

 

と考えて、断面積増加と見ることにする。つまり、aやbが時刻によって増加していくのだ。(この時刻という言葉、時間では?と思われるかもしれないが今回は要請①より、時刻=時間と考えてよい)

 

a≡a(t)=a_0+At

 

としてやる。さて、bも同様に定義するのでは?と思われるかもしれないが、ここであの"きしめん率"の出番である。

 

b=ρa

 

より、bは以降の議論から完全に省いてやることができるのだ。

 

最後に、今回導入した変数をまとめておこう。

x→うどん長さ

a(t)≡a_0+At→うどん断面の一辺

ρ→きしめん率(≡b/a)

 

また、次回からうどんの性質と美味しさを関連づけるための重要な関数、

 

コシ関数

のどごし関数

 

について議論することにしよう。

 

 

実はすでにかなり多くの草稿を書き終わっているのだが、非常に残念なことに計算上あってはならない壁にぶち当たっており、同時に生活の中で私がうどんに対して 割ける時間が減っていることもあり、この先問題を解決するか、またはそのまま書いてみて問題点を露わにするか、迷っている。

ただ、この連載も早いところ終えてしまいたいので(世界には常に疑問と妄想が溢れている)短期間で連発しようと考えている。

【うどんを数学する(1)うどん関数】

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冬至を越え、年を越え、そこから更に1ヶ月を経た。時の流れは早いもので今日などは春を期待させるような暖かさである。無論、肌寒い冬がもう少し続くことはほとんど自明の理であるが。

 

 

さて、死ぬまで食べても飽くことのない料理はあるだろうか?(私は斯様な問題をよく提起し、考えることが好きである。友人と飲みに出かけても女性と食事に出かけてもとりとめない話題を際限なくこねくり回す)

私は即座に"うどん"と答えることができる。実際私の冷蔵庫はその大部分をうどんに支配されている。

 

今回から数回に渡って、この"うどん"を数学的に解析するという、荒唐無稽意味不明かつ無意義極まりない妄想劇を繰り広げる予定である。(これはあくまで予定なのでどうなるか定かでない。その実私のペンはまだその計算を完遂してはいない)

 

 

その第1部として今回は、うどんを解析するためのいくつかの仮定と方針についてお話しする。

先に断っておくが、一連の議論には少なからず数学が出てくる。しかし、そのほとんどは高校までのそれで理解できるようにしてあるし、理解できない部分は結論だけを楽しんでいただければ良い。

では、

 

【うどん数理解析】

 

1、要請(前提)

まず、議論を進める上での方針を与える大前提を置くことにしよう。

 

①うどんは出来上がった瞬間から食べ始めることにする。

②うどんには具材が入っておらずうどん本来の要素だけで美味しさが決まる。

③うどんは味のないダシ(熱浴)に浸かっており、ダシは美味しさに関係しない。また、器は無限に大きいため常に等温である。

④麺は長細い長方形としてその長辺は断面に対してかなり長い。

 

この4つの要請から以下の問題を考える。

 

【うどんを食べ終わった時に最も幸福に感じるうどんの長さはいくらか】

 

さて、それでは本論へ。(難しいのは今回だけ)

 

2、うどん関数

まず、うどん関数を定義しよう。

 

U≡U(α,β,t)

 

ここでうどん関数とは、ある時刻においてうどんがどれだけ"美味しいか"を特徴づけるものである。また、

 

αをコシ関数

βをのどごし関数

 

として時刻tによって決まるコシの強さ、のどごしの良さを決める関数とする。

つまりうどんの美味しさはコシとのどごしが決める、と考えるのだ。(実はこの後満腹関数も導入する)

 

ここで既に違和感を覚える方も多いだろう。味はどーなんだ!とか、美味しさは人それぞれだろ!とか。しかし、ある現象をモデル化して議論する学問(物理や経済)において斯様なモデル化はまま見られるものであるから、ご容赦願いたい。(難しいのはもう少し先)

 

3、幸福とは?

人生常に幸せであることがその人の人生を最も価値あるものにするとは限らない。しかしながら少なくとも、うどんをすすっている時だけ考えれば、常にうどんを美味い!と思っている方が食べ終えてからの幸福度は大きい。したがって、以下のような幸福作用汎関数を導入する。(この節の数学は高校範囲を逸脱している)(ココ!難しいのはココだけ!)

 

S≡∫U(α,β,t)dt

 

こうすることで、作用の変分が0となる条件を与えるとうどん関数に対するオイラーラグランジュ方程式を導出することができる。(但し、ここではαとβが互いに独立であるように見えるので方程式は上手い形にならないように思えるが、以下でコシとのどごしが実は微積分関係にあるという驚きの証明を与える)

 

つまりSというのは、食べ始めてから食べ終わるまでの"おいしい!"の連続を足し合わせたものであるので、これは食べ終わった時の幸福感と考えてよい。

 

 

 

…ふぅ、とりあえずうどん関数とその意味を定義し終わった。実はこの後コシとのどごしについて考えを進めていくつもりだったのだが、既にかなりの文字数を使ってしまっているので、第1部はこのあたりで閉じることにする。

気が向けばこのあと、

(2)うどんが伸びるとは?

(3)コシのお話

(4)のどごしのお話

(5)コシとのどごしの幸福な関係

(6)満腹になること

(7)うどん関数からわかること

という流れで書こうと思う。

一回一回は難しくせずに、最後にはとてつもなく無駄なことをしていたのだと気付く流れになっているので、時間がある時に読んでいただければありがたい。

 

最後に断って置くが、うどんは何も考えずにただおいしい!と味わうことが大切だ。間違ってもうどん屋で数学などすることのないように。