サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【人類総ハゲ時代の予兆】

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冬と春の間にはもう1つ季節があるらしく、冬が終わってもまだまだ春は来ない。それはまるで桜のモラトリアムのようである。

 

さて、数回に渡りうどんについて述べてきた。相変わらず私の生活にはうどんが溢れている。(自宅での食事の8割はうどんだ)

しかし、時に深い愛情が憎しみに変わるように、うどんのことだけを考えすぎるのはあまり良いことではないとも思うので(決して日々うどんのことだけを考えているわけでもないが)

今回は、私がかなり前から気になっている"体毛のナゾ"について、現在辿り着いているところまでお話する。(したがってこの問題に対する答えは未だ得られておらず、みなさんの才ある頭脳にチカラをお借りしたい)

 

 

なぜ、体毛は生えるのか?

 

問題はそれだけである。そしてそれこそ、私を長らく悩ませてい至高の難問である。(ただし、私は生物学の高等教育を受けておらず、知識自体は義務教育の域を出ない)

え、そんなのは簡単?

 

身を守るため

 

と答える方、では尋ねる、

 

何から身を守るのか?

 

この問いは幾分難しい。

最初私は石や木の実などからの被害、つまり物理的攻撃から身を守るためだと思っていた。(以下、"木の実仮説"と呼ぶ)

対して、先日、新たな仮説が提案された。紫外線から身を守るというのだ。(以下、"紫外線仮説"と呼ぶ)

各々の主張について簡単に紹介しよう。

 

『木の実仮説』

(主張)木の実が頭上から落ちてくる等の危険から身を守る。

(論拠)顎髭についても物理的攻撃から身を守るという仮説は頷ける。顎を殴られると直接脳に衝撃が伝わるからだ。(ボクサーが顎を守るのはそのためだ)

(問題点)そうすると頭髪などはすでに必要ないのでは?

 

『紫外線仮説』

(主張)紫外線から皮膚を守るため体毛がある。

(論拠)熱帯地域(太陽光の強い地域)の人々は毛が濃く、寒冷地域の人々は毛が薄い。

(問題点)ではどうして体全体ではなく一部に残っているのか。

 

 

どう感じるだろうか?他にも"保温仮説"や"木の実-紫外線仮説"などを考えたが、なんとなくしっくりこない。

ただ、確実に言えそうなことは、体毛が"足し算"ではなく"引き算"されているということである。すなわち、必要な部分に毛が生えたのではなく、不要な部分の毛がなくなった、と考える方が進化論的に見てもたしからしいということである。

となると、いくつか面白い可能性が示唆される。

・文明を手に入れた生物は体毛が不要になり、減少してくるのではないか。

・よく語られる宇宙人はツルツルの肌であるが、ハビタブルゾーンなどを考えた場合、宇宙人はむしろ剛毛なのではないか。ツルツルだということは高度に文明が発達している証かもしれない。

 

 

もう少し異なる観点から見ると、以下のような疑問も湧いてくる。すなわち、

 

果たして本当に自然選択のみによって人類は体毛を減らしたか。

 

ということである。

実はこの問いはより広く、

 

・自然選択のみによって現在の生物進化を語りうるか。

・自然選択は常に生存に対して最適か。

 

という本質的な問題にも繋がってくる。

これは社会進化論や赤の女王仮説という見方をすれば、経済学や(軍事的意味での)政治学や歴史学などにも波及するのではと妄想したりする。

 

 とどのつまり、

"文明の進化に伴いヒトの体毛は減少する"

という仮説が立つことになる。ともすれば人間もいずれ全員ハゲになるのではないだろうか?

ハゲオヤジを馬鹿にするのは早めにやめておいた方が良いかもしれない。

 

 

不学者の妄想ゆえ、真偽のほどは定かでないが、ある意味において神秘的かつ哲学的な意義を持つような気もしている。

 

 

三寒四温の季節の変わり目、風邪などひかぬように。

【うどんを数学する(3)マシュマロとゴムの間】

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三寒四温、芯まで冷える日があると思えば、まるで地球全体がぬるま湯に浸かったかのような暖かな日もある。脇を吹き抜ける風はどこか知らない街へ春を運んでいるのだろうか。

 

私が更新を怠っている間、私やその周りの世界にはいろいろなことがあった。それはまた、改めて書きたいと思う。

 

さて、第3部まできた。予定では現在三分の一くらいが終わっていて、実はすでに最終部まで書き上げている。現在は検算の段階である。

今回は、うどんのコシ、に対する考察である。(変分原理のあたり以外は)さほど難しくはないはずなので、余裕のある方は数式まで読んでみて、おいお前、間違ってるぞ!と指摘していただきたい。

それでは…

 

【うどん数理解析】

 

6、うどん体積とうどん密度

うどんのコシを評価する前に、うどんの基礎的な数をいくつか導入しておく。まずは体積…

 

V≡V(t)=a*b*x

          =a*ρa*x

          =ρxa(t)^2

 

となる。最後の一行は体積が時間依存することを示している。ここで、要請④より、xは時間依存しない定数であるから、体積は結局、a(t)のみを独立変数としてとる。

次に、これを用いてうどん密度を定義する。

 

d≡d(t)=m/V(t)

 

ここでmはうどん質量である。今の議論に関してオカシイなと思われる方もいるかもしれない。どうして体積は大きくなるのに質量は一定なのだと。

今回はうどんそれ自体にダシが染み込んで体積が大きくなるのか、そもそも分子間距離が大きくなって体積が大きくなるのかは定かではない。したがってこの仮定は間違っている可能性もあるし、あっている可能性もある。

しかしながら、相手にしているダシは理想化されているので都合の良いように解釈して良いことにしよう。瑣末なことに目をやるよりも大きな結果を望むべきである。(斯様な議論はある意味邪道であるが、これにイチイチ目くじらを立てていては私の書く記事などほとんど読むに値しないものになってしまう)

それでは、やっと、コシを考えることにしよう。

 

7、コシをどう考えるか?

コシをどう扱うか、これはこの先の解析の難易を決定する微妙な問題である。ここでは、"極限"の考え方を導入しよう。

この"極限"という概念、早くは高校生でも習うもので、噛み砕いて言えば、"無限"とか"限りなく近づく"という概念だと考えて貰えれば良い。(数学好きのキモチワルイ方々はεδなどのお話をされるかもしれないが、残念なことに私はさる才能ある方々とは異なるので平易に理解し得る範囲に議論を留める)

私はコシと密度を関連付けることにした。つまり、コシをαとすると

 

うどんがめちゃめちゃ硬い時

d(t)→∞  ⇒  α→∞

うどんがめちゃめちゃ柔らかい時

d(t)→0  ⇒  α→0

 

となるような極限を条件として導入しようというわけである。あとはこの条件を満たし、現象を説明するに足るような関数(写像)で結んでやれば良い。最も簡単な関数が良いので、

 

α≡α(t)=Bd(t)

 

としよう。ここでBは"コシ係数"とし、"ある密度のうどんがどれだけのコシを持つか"という度合いを示すと理解する。無論、このコシ係数は材質や料理過程に依存するが、時刻には依存しない定数である。

 

こうして、コシを数学的に定義することができた。あとは、αからd、dからV、Vからaと戻っていけばある時刻に人が感じるコシを計算することができる。(αをtだけの関数として定めることはできるが、実はこれは今回の問題を達成するときには不要な議論なので割愛する)

 

 

8、コシと美味しさ

最後に、コシと美味しさがどう関係するかを定めることにしよう。ここでは熱力学などで出てくる"変分原理"の考え方を用いることにしよう。といっても難解な計算を振りかざすのではなく、現象に即した数学を考えると結果的に変分原理で表すことができたというようなイメージである。(特に今回は多変数関数に対する偏微分係数について考える)

 

・ゴムみたいなうどんの時、もちろん美味しさは減少する。

・逆にマシュマロみたいなうどんの時、この時もまた美味しさは減少する。

 

したがって、うどんの美味しさはあるコシα(max)に対して最大値を取るはずであり、これは、

 

∂U/∂α|(α=α(max))  =  0

 

を意味する。(この辺りの議論は少し難しいので理解不可能だと思えば飛ばしていただいて構わない、ちなみに同じような手法を完全熱力学関数についての議論の中で見ることができる)

さて、斯様な条件を満たす関数はどんなだろうか?例えばさらに、"1番美味しいコシから少し柔らかくなる場合と少し硬くなる場合で美味しさの減少は等しい"と考えるならば、

この条件を満足する関数は二次関数が良いだろう。(あの、高校一年生で習う上に凸の関数である)

つまり、

 

U  ∝  -(α-α(max))^2

 

U(α)  =  -C(α-α(max))^2+Cα(max)^2

 

と書くことができる。ここでCは比例定数であり、+以降の項は条件を満たすための切片である。

 

 

ふぅ、こうしてコシを定式化することに成功した。次の敵はのどごしである。

そしてそのあと、コシとのどごしの関係を見ることにする。

 

長い道のりである。しかし、最も美しい景色が高山の頂や海底深くにしか存在しないのと同様に、何か面白い結果を得るには地道な計算が必要不可欠である。もうしばらくお付き合い頂きたい。

 

季節の変わり目、体調には気をつけて。

【うどんを数学する(2)太ること】

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さて、飽きられる前に(というよりは私が飽きる前に)一連の思考を書ききってしまおう。今回はうどん数理解析の第2部である。

この回の目標は、

・うどんがのびることを数学的に扱う。

きしめん率を導入する。

ことである。今回は非常に平易な回なのでゆるゆると進めていこう。

 

【うどん数理解析】

 

4、うどんそれ自体を見ること

前回は、うどん関数なる訳の分からぬものを導入した。(うどんを数学するの(1)です)

ところで、ものごとはいくつかの階層により成立している。丁度それは、私を境目にして私を作り上げる小さな臓器があり、それを作り上げる細胞があり、それを作り上げる分子があり…というように。または、私は大学の一員であり、大学は社会の一員であり、社会は世界の一員である…というように。

何が言いたいかというと、たとえうどん関数などというものを作り、それによってうどんと幸福度を結べたとしても、それらはまだうどんそれ自体については何も教えてくれないぞ!ということだ。

前回美味しさと幸福度を結んだのと同じように、今回は時刻とうどんを結び、次回から数回はうどんと美味しさを結ぶ。

こうすることでやっと、時刻と幸福度を俯瞰して知ることができる。なかなか長い道のりである。

 

5、うどん一本の状態

以下、うどんを特徴づける変数をいくつか導入する。まずは、要請④より、

 

x≡うどんの長さ

a、b≡うどん断面の2辺それぞれの長さ

 

と定義する。ここで非常に重要な仮定を一つ。

 

x≫a、b

 

を置くことにしよう。この仮定は、

 

【たとえa、bが時刻によって変化しても、xは変化しない。つまり、xは時刻に対しては定数】(以下、単に定数というときは時刻に依存しないことを指すことにする)

 

であることを主張するものだ。

 

ところで、"きしめんってどっからがきしめんやねん!"と思ったことはないだろうか?そういう不安を解消するために続いては、"きしめん率"を導入する。先ずは表式

 

ρ≡b/a

 

これは断面の一辺に対して、他方の辺がどのくらい長いかの比率を示す数値で、今回この値は定数であるとする。(但し、対称性や極限条件などには深入りせず、単に計算上有用な量という見方をする)

実はこの"きしめん率"は単にどのくらいきしめんかを示す数値であると同時に、この先の議論を非常に簡単にしてくれる魔法の数なのである。

さて、とりあえずうどん自体に対する数値は定義し終わった。

 

 

5、うどんがのびる

うどんがのびるのは、何故か?…私はこの問いについて確信めいた何かを得たことはない。それは多分化学的な作用なのだろうけど、そもそものびたうどんを前にして"このうどん、どうしてのびたのだろう?"と考えるのはあまりにも馬鹿げている。何故なら、のびた原因は何故のびたかを考えているからだから。しかし、こののびるうどんを数式で表現することはさほど難しくない。

 

((ここからの数行は数学物理に興味のある私と同類のキモチワルイ方々のみ読んでいただければ良い)実はこの"のび"、どの関数で表現するか少し迷った。と、いうのも、要請から時刻に対して断面積は強増加であることはまま自明なのだが、どの関数がよいものか…。

そこで今回は実際のうどんを観察することはあえてやめにして(物理ではあり得ないこと)、処理しやすい関数で置くことにした。その名も、一次関数…)

 

 

うどんののびを

 

"うどんが太る"

 

と考えて、断面積増加と見ることにする。つまり、aやbが時刻によって増加していくのだ。(この時刻という言葉、時間では?と思われるかもしれないが今回は要請①より、時刻=時間と考えてよい)

 

a≡a(t)=a_0+At

 

としてやる。さて、bも同様に定義するのでは?と思われるかもしれないが、ここであの"きしめん率"の出番である。

 

b=ρa

 

より、bは以降の議論から完全に省いてやることができるのだ。

 

最後に、今回導入した変数をまとめておこう。

x→うどん長さ

a(t)≡a_0+At→うどん断面の一辺

ρ→きしめん率(≡b/a)

 

また、次回からうどんの性質と美味しさを関連づけるための重要な関数、

 

コシ関数

のどごし関数

 

について議論することにしよう。

 

 

実はすでにかなり多くの草稿を書き終わっているのだが、非常に残念なことに計算上あってはならない壁にぶち当たっており、同時に生活の中で私がうどんに対して 割ける時間が減っていることもあり、この先問題を解決するか、またはそのまま書いてみて問題点を露わにするか、迷っている。

ただ、この連載も早いところ終えてしまいたいので(世界には常に疑問と妄想が溢れている)短期間で連発しようと考えている。

【うどんを数学する(1)うどん関数】

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冬至を越え、年を越え、そこから更に1ヶ月を経た。時の流れは早いもので今日などは春を期待させるような暖かさである。無論、肌寒い冬がもう少し続くことはほとんど自明の理であるが。

 

 

さて、死ぬまで食べても飽くことのない料理はあるだろうか?(私は斯様な問題をよく提起し、考えることが好きである。友人と飲みに出かけても女性と食事に出かけてもとりとめない話題を際限なくこねくり回す)

私は即座に"うどん"と答えることができる。実際私の冷蔵庫はその大部分をうどんに支配されている。

 

今回から数回に渡って、この"うどん"を数学的に解析するという、荒唐無稽意味不明かつ無意義極まりない妄想劇を繰り広げる予定である。(これはあくまで予定なのでどうなるか定かでない。その実私のペンはまだその計算を完遂してはいない)

 

 

その第1部として今回は、うどんを解析するためのいくつかの仮定と方針についてお話しする。

先に断っておくが、一連の議論には少なからず数学が出てくる。しかし、そのほとんどは高校までのそれで理解できるようにしてあるし、理解できない部分は結論だけを楽しんでいただければ良い。

では、

 

【うどん数理解析】

 

1、要請(前提)

まず、議論を進める上での方針を与える大前提を置くことにしよう。

 

①うどんは出来上がった瞬間から食べ始めることにする。

②うどんには具材が入っておらずうどん本来の要素だけで美味しさが決まる。

③うどんは味のないダシ(熱浴)に浸かっており、ダシは美味しさに関係しない。また、器は無限に大きいため常に等温である。

④麺は長細い長方形としてその長辺は断面に対してかなり長い。

 

この4つの要請から以下の問題を考える。

 

【うどんを食べ終わった時に最も幸福に感じるうどんの長さはいくらか】

 

さて、それでは本論へ。(難しいのは今回だけ)

 

2、うどん関数

まず、うどん関数を定義しよう。

 

U≡U(α,β,t)

 

ここでうどん関数とは、ある時刻においてうどんがどれだけ"美味しいか"を特徴づけるものである。また、

 

αをコシ関数

βをのどごし関数

 

として時刻tによって決まるコシの強さ、のどごしの良さを決める関数とする。

つまりうどんの美味しさはコシとのどごしが決める、と考えるのだ。(実はこの後満腹関数も導入する)

 

ここで既に違和感を覚える方も多いだろう。味はどーなんだ!とか、美味しさは人それぞれだろ!とか。しかし、ある現象をモデル化して議論する学問(物理や経済)において斯様なモデル化はまま見られるものであるから、ご容赦願いたい。(難しいのはもう少し先)

 

3、幸福とは?

人生常に幸せであることがその人の人生を最も価値あるものにするとは限らない。しかしながら少なくとも、うどんをすすっている時だけ考えれば、常にうどんを美味い!と思っている方が食べ終えてからの幸福度は大きい。したがって、以下のような幸福作用汎関数を導入する。(この節の数学は高校範囲を逸脱している)(ココ!難しいのはココだけ!)

 

S≡∫U(α,β,t)dt

 

こうすることで、作用の変分が0となる条件を与えるとうどん関数に対するオイラーラグランジュ方程式を導出することができる。(但し、ここではαとβが互いに独立であるように見えるので方程式は上手い形にならないように思えるが、以下でコシとのどごしが実は微積分関係にあるという驚きの証明を与える)

 

つまりSというのは、食べ始めてから食べ終わるまでの"おいしい!"の連続を足し合わせたものであるので、これは食べ終わった時の幸福感と考えてよい。

 

 

 

…ふぅ、とりあえずうどん関数とその意味を定義し終わった。実はこの後コシとのどごしについて考えを進めていくつもりだったのだが、既にかなりの文字数を使ってしまっているので、第1部はこのあたりで閉じることにする。

気が向けばこのあと、

(2)うどんが伸びるとは?

(3)コシのお話

(4)のどごしのお話

(5)コシとのどごしの幸福な関係

(6)満腹になること

(7)うどん関数からわかること

という流れで書こうと思う。

一回一回は難しくせずに、最後にはとてつもなく無駄なことをしていたのだと気付く流れになっているので、時間がある時に読んでいただければありがたい。

 

最後に断って置くが、うどんは何も考えずにただおいしい!と味わうことが大切だ。間違ってもうどん屋で数学などすることのないように。

【夜のノビ・ノビタ(2)】

眠れない夜である。否、眠らない夜かもしれない。テスト前になると私もそれなりに準備するので、生活が変則的になり、今日のように遅くまで勉学に励むこともあるのだ。(その期間が一般的に長いのか短いのかは成績を見れば火を見るよりも明らかなのだが)

 

研究室にいて、少し小腹が空いたので散歩がてら何か買いに行くことにした。いつかのような、夜の散歩である。今回は大学の夜を少し散文的に眺めることにしよう。

 

 

私の通う研究室には"ひとをダメにするソファ"なるものがある。そこにドップリと座ってふと、"このソファは私を今以上にダメにすることができるのだろうか?"などと考えてみる。眺める先には煌々と光るディスプレイとそこに映し出される難解な数式。しかしそれらについて私はほとんど何も知らないし、またそれらが私に答えめいた何かを語りかけて来ることもない。

 

立ち上がり、部屋を出る。そこにはあまりにも長く、あまりにも暗い廊下が延びていて、向こうに小さく光が漏れている。全ての人にとって人生はこういうもので、ほとんどの人にとってあの光は幻かもしれない、などとよくわからない妄想に耽る刹那、私はどちらに属するのだろうと感傷的になったりする。

 

外に出ると、幾分空は曇っていて、夜道は目を瞑るよりも明るい。道の先には猫が見える。私を一瞥してそそくさと茂みに身を隠したそれはまるで季節のようだと、遠い春や、長い夏や、束の間の秋を振り返る。

 

夜道は朝歩くよりは長く、昼歩くよりは短い。大きな音を立てて幾らかのオートバイが傍を走り去った。

 

考えてもみると、コンビニエンスストアというところは全ての人にとって通過点に過ぎないのだろう。人はきっと、コンビニにたどり着く前か、コンビニから出た後に死ぬのだから。そしてその事実はコンビニをコンビニとして特徴付けるに足る唯一のものかもしれない。

 

店を出れば、今が冬であることを思い出す。暖かくて明るい店内は冬をより強固で冷酷で無機質なものにしているのかもしれない。暖かな部屋さえなければ、冬などそもそもありえないのかもしれない。

 

道に立つ信号機は驚くほどに迎合主義的だ。それらは寸分違わぬ速さで全く同時に赤黄緑と色を変える。それは丁度、社会に生きる私たちのようだ。

 

学部の入り口には大きな振り子が揺れている。そしてそれは地球の自転によるものらしい。私が眠っていようが起きていようが、何かを考えていようがいまいが、地球はいつも同じ速さで回るのだ。ピサの斜塔から鉄球が落ちた時も、木からリンゴが落ちた時も。

 

また私の体は研究室にもどってくる。精神はまだ、いつか見た猫を追いかけたままだが。

空が白み始めるまでに、まだいくつかやり残したことがある。

私の書く言葉が、散らばりすぎる前に散歩を終えることにしよう。

 

冬の盛り、夜更かしで風邪を引かぬように。

【右手には指が4本しかない】

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年が明けた。このところ冬将軍は少し影を潜め、例年に比べれば暖かな日が続いているように思われる。私の生活圏にも積雪はなく、安堵する大人な私と残念がる子供な私を感じたりするこの頃だ。

 

明けましておめでとう。このセリフも人生もう何度目だろうか。しかし何度来ても正月というのは良いもので幾分幸せな気持ちになる。

 

 

さて、今回は新年1発目ということもあって、私のブログらしく、わけのわからぬ妄想話を繰り広げたい。今年もカリスマブロガーを目指して雷鳥の如く突き進む所存である。(ここに綴られる妄想はまだまだ氷山の一角である。能ある鷹は爪を隠すのだ、脳のない鷹にも爪は見えないのだが)

 

 

唐突だが、あなたの右手に人差し指はあるだろうか?

 

 

え?今こうしてケータイを触っているではないか!と仰るかもしれないが、では、どうしてあなたは視覚を信じるのか?

 

私はあなたの身体について尋ねている。したがってあなたがその命題について何かを示す時にはあなた自身の身体を用いてはならない。(中学生の頃に習った数学の証明問題でも結論を仮定してはならぬと教わったはずだ)

 

無論、指をパチンと鳴らしてもダメだ。左手で撫ぜてみてもダメ。舌で味わっても鼻で嗅いでみても、それは証明にはならない。

 

では、他人を使うのはどうか、という話になるが、他人は他人でその認識を証明できない。

 

ドツボである。このままでは私の(あなたの)右手には人差し指がなくなってしまう。語り得ぬことには沈黙せねばならないのだ…(実はこのパラドキシカルなお話はヴィトゲンシュタインによるものである)

 

 

そもそも我々はナゼ、右手人差し指の存在を認めるのだろう?その存在は少し懐疑すれば簡単に揺らぐのに。

 

 

人は常に、"ありそうな(そしてあってほしい)世界"を想定し、信仰するのだと最近考えることが多い。世界(またはある現象)に対する解釈というのは複数存在する。そして我々はその中で最も"ありそうな"解釈をある種盲目的に選択している。

 

身近に言えば、若き日の恋愛などもそうである。観測事実(言葉のやりとりや仕草、好みや噂話)だけを見ればそこには両極端な解釈が複数存在するのに、多くの場合我々は"ありそうな"(場合によってはあってほしい)仮説の1つを選択し、信じ込む。そういう盲信が悲しい結果を生んだという経験は誰にでもあることではないだろうか。

 

そういう類のことは恋愛以外の人間関係(友情や家族、学校や会社)にも沢山存在するように思われるし、より広く、政治的思想、宗教信仰、自然科学に至るまで同様の形式をとるようにみえる。

 

しかし常にそこに存在するのは冷淡な観測事実のみであることを忘れてはならない。如何に正反対な解釈意見も同様の事実に立脚し、その事実を論拠とする。

そして"ありそうな、あってほしい"世界は人それぞれ異なっているということも真実のようだ。私のあってほしい世界はあなたのあってほしくない世界かもしれない。

 

 

私が"あなたの右手には人差し指がない"と言ったところで、あなたは人差し指の存在する世界を信じるだろう。私が"彼女は悪魔のような女だ"と言ったところで、あなたは彼女が淑女である世界を愛するのだ。

 

 

 

ニュースキャスターの事実とコメンテーターの解釈、教義文言の事実と宗教家の解釈…。

世界は限られた事実と、無限の解釈からできている。そしてそれは時として不可分的であり、複雑怪奇に絡まり合っている。事実と解釈を見誤ることのないように生きていきたいものだ。

 

 

 

冬至を超えて1日は少しずつ長くなるが、まだまだ春は先のようだ。流行病と正月太りには気をつけて。

【生まれたての僕ら〜年の瀬に寄せて〜】

世界がまた1つ歳をとろうとしている。誰が決めたかわからぬ誕生日に、私の部屋だけがその準備をできていないまま、一年が去り、またやってこようとしている。

 

 

さて、また数週間更新できていなかったが、これは明らかに私の怠惰的生活にその要因がある。

しかしながら、その怠惰な毎日の中にも疑問や発見はあり、そのいくつかを下書きに書き溜めているので、気が向けばカタチにしようと思っている。(【アリスとイケメンなわたし】【郵便ポスト貧乏】etc...)

 

 

今回はそういう偏屈な妄想は避けて、年の瀬にブログらしく"今年"を題材に短く収めることにする。

 

 

今年の漢字、というのが毎年発表される。いくら漢字が多くを語るとしても1年を1字で、というのは無謀すぎやしないかと毎年思うのだが、まぁそういうものなのだろう。

 

ふと、(まるでブロガーみたいに)私の1字はと考えたりした。

…"問"だろうか。今年は常に問い、問われ続けていたように思う。誰か(そして何か)が耳元で問いを囁き、私も同じように誰かに囁き続けた。

 

ーーーーー

 

しかし、考えてもみれば、問いというのは生まれてから今に至るまで常に私の周りに(そして内部に)一定数存在し続けているハズである。ならば何故、私は今年、"問"を挙げたのか…(という問いを耳元で囁くはてなブログはてな?)

 

多分、"問いの加速度"が関係している。問いは年々増えている。そしてそれは、線形とは程遠い割合で。そう、丁度指数関数のように増加し続けている。今年はその時間変化率の変化率、つまり加速度が大きいなと感じた年だったんだろう。

対して、"答えの加速度"の減少も著しい。答えの加速度は指数関数の逆数で小さくなっている。年々答えられる物事は減り続け、それはゼロに漸近する。

 

…さすれば、"問いの数"と"答えの数"が一致していたのはいつのことなのだろう?ぶち当たった疑問に全て答えを付けていられたころはいつなんだろう?

 

もしも"問いの数"も"答えの数"も指数関数に支配されるとすれば(数学的にはその背後に微分方程式が見え、いくつかのパラメタがみえるのだが)

その2つの曲線が交わるのはただ一点、"生まれた瞬間".だけである。この世に生まれた瞬間だけ、私は世界からの(そして私自身からの)問いに完全な回答を与えることができた。

プラトンは言う、人は生まれる前にイデアを見る、と。そしてそれは世界についての完備な解である、と。

また、夢野久作ドグラマグラの中で、胎児の夢を語る。退治は生まれる前に人生の(または人類世界の)全てを夢に見るのだと。

 

もしかすると私が(そしてあなたが)あげたオギャアという産声は悲しみでも喜びでもなく、もっと冷淡でロジカルな何かの完全な解だったかもしれない。

 

ーーーーー

 

多くの方かわけのわからぬ文章を読まされたと後悔していることだろう。私だってわけのわからぬ文章に時間を費やしているのだから、ご容赦いただきたい。短く収めるなどというのは真っ赤なウソであった。

 

 

 

0歳になれるならばなりたい。ベンジャミンバトンのように生きられるならその方が良いかもしれない。しかし、私は時間を犠牲にしたのと同じだけ、何かを手に入れている。それは0歳の私が決して持たなかった何かであり、きっと時間とは非可換的な何かである。

 

今年手に入れた何かを大切にして、答えなき世界への憂いと仲良く付き合ってゆくことができれば幸せである。来年もまた世界に溢れる問いの数々とゆっくり対峙していきたい。

 

 

火の用心の声が冷え切った街角にパッと明かりを灯した。明日は大晦日だ。年の瀬に風邪など引かぬように。