サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【地球くらい丸いこと(大切な1年間の備忘録にかえて)】

以下の記事は11月初旬に一度投稿し、諸般あって再度投稿するものである。無論、時候の挨拶やいくつか時系列に関しての矛盾があるが、その時感じた言葉を変えるのは惜しい気もするので、そのままにしておく。

 

(以下、本文)

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秋雨が蕭々と降る。私は(久々に座る)自室の椅子で長い長い走馬灯を見るように(それはとても矛盾的な感覚で)この1年間をゆっくりと咀嚼している。

 

さて、学園祭というのは学生によって様々な顔を見せるものである。ある人にとってそれは人生史に残る青春であるし、またある人にとっては単なる休日。ある男女にとってそれは恋の始まりかもしれないし、ある男たちにとってそれは友情の証かもしれない。

私にとってそれはなんだっただろうか。全てが当てはまるような気もするが、全部が全部全然違ったような気もする。

 

最終日に文字通り顔に塗りたくってしまった何かはもう消せぬ過去であるから、私が何を語ろうがそれは茶番である。しかしながら、いつか(例えばそれを忘れた時、または忘れたことすら忘れてしまった時に)記憶の迷宮を彷徨う私の"アリアドネの糸"となるように、ここに備忘録を記すことにする。

 

日記や日誌、備忘録というのは時系列を追うことがセオリーなのだろうが、私の記憶を走る馬車馬はそれほど優秀ではないから(幾分邪道ではあるが)、思い出されることから綴ろう。

 

1年間の前半分くらいの私はあまりにも傲慢であった。(以下の告白は純然たる事実であるし、それを今更取り繕う気もない、かような内容にて気を悪くされる方もいるかもしれないが、事実以外を語る備忘録に意味はない)

人を数として割り切ることが、組織を運営することには必要不可欠であると考えていた。無論それは全くの間違いというわけではなくて、そういう側面があることもある。しかし、それだけでは全く上手くはいかないようにも思う。

 

割り切ることはある意味において非常に重要である。それは肉体的な意味において労力軽減であるし、精神的な意味において自己防衛である。相手にする組織が大きければ大きいほど、そういう姿勢というのは意義深い。だけれども、人は人であり、数字ではない。いくら数学的論理的に最適であっても、全く上手くいかぬことが山のようにある。

 

他方、1年間の後ろ半分は迷い続ける時間を過ごした。その迷いは常に後悔と共に私を襲い、私はいつでも過去の間違いに、ほとんどない髪を引かれ続けた。

 

正直に言えば、もっと上手くやれたのではないかと、思ってやまない。彼彼女があの時期どれだけ辛かったのだろうとか、どうして私はそれに気付かなかったのだろうとか、そういう類の後悔は、実のところ今でも内心に塒を巻いて鎮座している。

 

または、1年を通して意味を問い続けてもいた。どうしてみんなにこんなしんどいことをさせるのか、多くの人の大量の時間を潰して果たしてなんの意味があるのだろうか、そういう茫漠とした疑問がことあるごとに想起された。

しかしそれは、全て終わって見るまで(少なくとも私には)全く解けない問題であった。逆に言えば、全て終わった今、その答えは、(答えらしき何かは)私の中にある。ただ、その答えのようなものを言語化するにはまだ少し時間がかかりそうだ。

 

 

意味というのは、常に結果に付随するのではないかと、思ったりする。それはまるで木々の成長が雨上がりに訪れるように、雨の降る最中には木々の成長はなく、降雨の意味はわからない。または、意味というのは結果によって簡単に変わってしまうのだろうとも思う。もしも誰かに何かあれば、意味は簡単に変わっていただろう(それを見つけられるかは度外視して)。

 

組織や社会、世界は丸い方が良い、と思っていた。全ての人はone of themで没個性的で淡々としている方が良い、と思っていた。しかしそれは全然違うのかもしれない。ちょうど組織は地球くらいの丸さの方が良いのかもしれない。時には突き出た山岳地帯があり、時には深くえぐれたクレーターや海溝があり、本当の深層部は広大な海に覆われていて見えないが、それでもおおよそ丸い、全体として丸に近い、そのくらいの方が、上手くいくのかもしれない。

 

 

今回の投稿はあまりにもフワフワしていて、私以外には理解できないかもしれないが、まぁそういう回があっても良いかもしれない。特に宣伝することもせず、気付いた人、時間を持て余した人が読んでくれれば良い。

 

 

気がつけばキャンパスの葉は赤黄色に染まっている。朝夕は師走を運ぶような寒風が身を切るような季節、体調には気をつけて。

 (以上、本文)

 

私か、または誰かの、何かのために役立てば幸いである。

 

【夜のノビ・ノビタ】

眠れない夜である。夏が終わり、秋になると私は毎年かような夜を何度か繰り返す。秋の夜は長く、取り留めのない思索に耽ったり、意味を持たぬものを書いてみたりなどしても、まだまだ日はのぼってこない。

 

ブログを更新していないこともあるし、お酒も少し飲んでいるし、今回は散文的に、詩的に、真夜中の散歩でふと思ったことを綴ることにする。

 

谷川俊太郎の詩に『夜のミッキーマウス』というのがあることをふと思い出した。私はどう考えてもミッキーマウスのような人気者でないし、プーさんのようにおおらかでもない、まあ踏ん張って野比のび太が関の山である。彼と私との違いは、目を瞑ってすぐに眠れるかどうかと、猫型の優秀な機械を持っているかどうか、くらいであり、それは些細なことである。

 

猫といえば、最近自宅のまわりに猫が増えたような気がする。私個人の推測ではそれは近所の大きな建物の解体と関係していて、よく出没する猫たちは住処を追われた漂流者なのではないか、と考えている。が、私が猫と会話できない以上、真偽は定かではない。

 

私も猫たちと同様、この夜を漂流している、または、それは人生のことかもしれない。風に吹かれて転がる石に自らを写したのは、ボブディランだったか。どれだけ歩けば、私は一人前の男になれるのか。(風に吹かれての冒頭)

 

ボブディランがノーベル賞を辞退するとかいう話を読んだ。そういえば、サルトルノーベル賞を辞退した、という昔話を聞いたことがある。彼の『実存主義とは何か』に手を出したのは私の浪人が決まってからだったろうか。

 

浪人や、その他諸々の時を経て、だいたい20年間、この世界で生きている。問題は常に山積みだ。壁や障子に耳や目がないかわりに、窓ガラスや本棚や温かいコーヒーの中にだって、常に問題を囁く口がある。口、口、口…。

 

別段、憂いているわけではない。極論すればあと数十年の人生も、それなりの働き口を見つけて、夜になれば好きな歌を口遊めばよいのだ。今、私がそうしているように。

 

夜に歩けば、たくさんのものを見て、たくさんのことを考える。それは大抵間違っている。しかしそれで良いのかもしれない。私は太陽のように正確ではないからだ。むしろ月のように、昼間上がることもあれば夜上がることもあり、また、それはそれとしてちゃんと地球の周りを回っている、月のようであればよいのではないか。月である、ことのみが月を月たらしめているのだ。それはのび太も猫たちもボブディランもサルトルも、そしてもちろん私だって同じである。それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

 

散文的とは言ったものの、あまりにも文章が散らばりすぎたのでこの辺りで夜の散歩は終わることにする。

肌寒くなる季節、風邪を引かぬように。

 

【ハゲオヤジ、または国家について】

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爽やかな季節である。高い空に浮かぶ雲に朝日が反射して、世界がきらきらと輝くような。

 

さて、朝の通学でふと思い出した数学の命題がある。今回はそのパラドキシカルな論法とサイエンス、哲学、そして国家戦略の妄想をツラツラと綴ることにする。

 

"ハゲオヤジのパラドックス"というのをご存知だろうか。数学や論理学に興味のある人にとってはあまりにも有名であるから、今更私が説明するまでもないのだが、カンタンに言うと、

 

『人類は全て、ハゲである』

 

ことを主張する。

以下、証明。

数学的帰納法を用いる。

1、髪の毛が1本しかない人はハゲである。

2、髪の毛がn本の人をハゲだと仮定する。するともちろん、髪の毛がn+1本の人もハゲである。(1本増えたところで波平はハゲ)

1、2より数学的帰納法から、髪の毛が何本あっても人はハゲである。

 

と言うものである。

これを正当に反駁できるだろうか。論破できるだろうか。

 

…電車の向かいに座る人々、ハゲ、ハゲ、少し空いてハゲ、ハゲ、ハゲ…。

そんな世界はあまりに世知辛いので種明かしをしよう。

 

このパラドックスの問題点はズバリ、"曖昧さ"である。(私は過去、この命題に対する解説をいくつか読んできたが、どれも最終的には曖昧さに帰着させていた)

換言すると、"ハゲとは何か"ということが明確でない。髪が0本の人は多分ハゲであるが、たとえフサフサでも10円ハゲはハゲである。

例えばハゲを数学的に定義できればこのパラドックスは回避できる。(つまり髪の毛の本数を具体的に指示する)

ハゲというのは(数学的に見れば)あまりにも"曖昧な"概念である。

 

ヴィトゲンシュタインという哲学者がいる。"語り得ぬことには沈黙せねばならぬ"と言った彼である。私は浪人時代、彼をよく読んだ。彼もまた、"長らく議論されてきた哲学的命題はおよそ全て、言語使用の曖昧さにその本質がある"と語っている。(と私は考えている)

まぁ、哲学的命題が全て言語使用の曖昧さに起因するとは少々早計であるような気もするのだが、彼の主張もある程度は的を射ているような。

 

 

ところで、ノーベル賞発表の時期である。私も専門が物理であることもあり、注目している。

毎年のことであるが、ノーベル賞発表の前後は

 

『この研究、何の役に立つんですか』

 

という質問が飛び交い、

 

『そんなことに血税を使うのか』

 

と怒る人もいる。

多くの科学者や政治家、評論家が"役に立つ"の話をしている。

しかしながら、そもそも"役に立つ"とはどういうことなのだろうか。それは誰が決めるのだろうか…。

マイケルファラデーは電磁誘導の法則について政治家に、"それは何の役に立つか"と聞かれた時、"それはわからないが、20年後あなたは必ず電気に税金をかける"と答えたという。(私は科学者の逸話をほとんど信じていない、が、昔議会議事録でこの議論を見たような気もする)

 

何の役に立つか、、、その質問の本質もまた、"曖昧さ"にあるような気がしている。換言すれば、役に立つか、立たないかなどというのは人によって捉え方が異なるし、それこそメガネを役立てている人とそうでない人のようなものだ。

そのような曖昧な基準で物事を測ることはキケンである。(どんな美人をもハゲと呼ぶことになるのだから)

 

 

それでも国は(どちらかといえば)近視眼的な科学政策を立てる。数年後の成功を目処に予算を組む。果たして"役に立つか"という曖昧な議論で国家戦略を定めて良いものか。

研究者を志す私の憂いも多少なりとは含まれるかもしれないが、それを度外視しても、現状が少しでも良い方向に向くことを祈らずにはいられない。

 

 

深く黙考する秋である。ドビュッシーが似合う夜長である。夕闇の帳は景色を曖昧にする。この曖昧な季節に無理をしすぎることのないように。

 

追伸

どこの誰だかはわからないが、コメントを頂いた。私はコメントの返し方がわからないので、ここで感謝を伝える。

コメントはカリスマブロガーへの糧である。(多分)

【数学的歩き方のススメ(梅田編)】

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永遠と曇天が続く、秋晴れが待ち遠しい時分である。来たる台風が晩夏から尾をひく低い雲を運び去ってくれることを切に願っている。

 

さて、更新がかなり遅くなってしまった。夏期休暇中の私は、ものを書くにはあまりにも余裕がなく、考えるにはあまりにも時間のない生活をしていたので、なかなかコチラの方まで頭が回らなかったのだ。が、また再開である。カリスマブロガーへの道程で座り込んでいたが、またすくっと立ち上がり、メロスのごとく走り出す…つもりである。

 

今回は"最適化"について最近思うことをツラツラと書き連ねる。最初に断っておくが、私はこの分野を深くは学んでいない。したがって、まま、間違いもありうる。諸氏は目を瞑っていただけると幸いである。

 

まずは、サイテキカ…?という方のために。

これは理論体系というよりは、各分野の根底を流れる一つの思考手法である、と私は考えている。物理学、金融工学、分析経済学、情報工学…その他、最適化という概念を含む分野は非常に多岐にわたる。(但し、物理などでは最適化という言葉は用いない、本質的に同じことをしているのみである)

…まぁ、カンタンに言うと、"1番良い方法"は何かを知る。ということである。

 

 

何故そんな難解な学問の話をしているかというと、これがどうやら日常生活にかなり役に立つ(というか私は役に立てている)からだ。

もちろん私は数理アナリストではないし、理論物理学者でも敏腕プログラマーでもない。しかし、私の日常には最適化問題が溢れている。

 

以下、私の最適化問題(この例は大阪に住んでいる人にしかわからないかもしれない、が、大阪に住んでいる人なら、私と同じことを考えたはずだ)

私は梅田をよく利用する。あそこはまるでそうダンジョンのような土地である。特に私が不満なのは、大阪駅からヨドバシに行く時で、一旦地下に降りるか2階に上がるかしか渡る方法がないのだ。(つまり、横断歩道がない)

または、地下鉄東梅田からヨドバシに行く時、大阪駅南側から、先ほど述べたルートを通るか、または一旦阪急百貨店側に渡ってから、ダイコクドラッグの前の横断歩道を渡ってヨドバシに向かうか、という選択に迫られる。(本当にわからない人には何を言っているのかわからないと思うが、わかる人には必ずわかるはずだ)

 

この時、どのルートが最も近いかというと、これはとても難しい。

例えば、(こんな極端な例があるのかと思うが)階段大好きおじさんなら、きっと地下に降りるか、2階に上がる。電車大好きおじさんなら、JR大阪駅から見える列車を少しでも見るために2階に上がるかもしれない。

もっとありそうな例を示そう。

普段私は大阪駅南側から一旦阪急百貨店側に渡る。

しかしもし雨が降っていたら、どうか。この場合は大阪駅を南北に通ってから地下に降りてヨドバシに渡る。

 

何が言いたいのか、というとこれはある意味での最適化問題であるということだ。人の好み(階段大好き電車大好き)やその時の状況(雨が降っている、傘を持っていない)によって、どのルートを通ることが最も利益をもたらしてくれるのかというのが決定されるわけである。

もちろん、距離は短い方がいいが、土砂降りの中を歩くよりは建物の中を歩きたい。もちろん、早く着きたいが、人混みはゴメンだ。などなど、いくつかの要素が相反するとき、その中で最も良い方法を考えること、それが日常の最適化である。

 

少し慣れてくると、各要素を変数にし始める。例えば基本変数を距離としておくと、雨が降る場合は×1.5、屋根があって日差しが防げるなら×0.7というふうに、距離に"重み"をつける。こうすることでどのルートを通ることが最も効率的なのかということを数学的に計算できるのだ。

 

道のりだけではない。複数人がどこで飲み会をやれば合計の移動費が少なくて済むか(ネットワーク問題)、どのように値段を変えれば商売がうまくいくか(動学的最適化)などなど、非常に広範な領域に用いることが可能である。

 

…こんなことを考えながら生きているのか、と冷笑されるかもしれないが、私自身は、歴史的成果に裏打ちされたこの美しい数学的手法を用いて生きていけるということは、とても面白いことだと考えている。または、人生の大切な選択をするときに、ただの直感であるよりは、かような論理に頼る方がまだマシなのではないか、などと思うこともある。

 

 

もう年の瀬も目の前だ。有り余るタスクを最適化しつつ、季節の変わり目に体調を崩さぬように。

 

【アンパンマンの本体はどこか?】

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ここ数日、ブログの更新ができておらず、カリスマブロガーを目指す者としては余りにも怠惰的であると反省している。否、本当はずっと下書きに置いてある文章があるのだが、(これまた荒唐無稽意味不明な疑問についてである)どうやら今の私の手に負える問題でないように思えて思考停止してしまっているのだ。英文学などを専門にしている方に相談したいものだ。(表題【おじいさんの古時計はいつから古いのか】)

さて、今回は上記のような難解なお話(でもない)は置いておいて、アンパンマンについてである。

"アンパンマンの本体はどこか"

ふと浮かんだ疑問はまたノーミソの中を堂々巡りした。私の考えうる可能性は3つ。

1、アンパンそれ自体
2、アンパン以外の部分
3、両方に分割

他には可能性のないことを慎重に確かめて一つずつ検証することにした。

1、アンパンそれ自体説
この場合、"顔が濡れて力が出ない"ことは頷ける。まさしくアンパン男である。
しかし考えてみればアンパンマンのアンパン部分は取り替え可能(というかそれが物語の重要な点)である。
したがって、バイキンマンが悪さをしたという過去の事実を記憶しているアンパンが濡れて、取り替えられてしまえば、過去の記憶は新たなアンパンには引き継がれず、アンパンマンバイキンマンを成敗するモチベーションはなくなってしまうのだ。したがって矛盾が生じる。

2、アンパン以外の部分説
こちらの場合、上記のような"情報の不連続性"は回避できる。
しかしながら、この場合、そもそもアンパンはなんのためにあるのかという根本的な問題にぶち当たり、さらには"顔が濡れて力が出ない"ことを説明できない。
顔がアンパンである必要も、そもそも顔がある必要もなくなってしまい、これまた矛盾的である。

3、両方に分割説
この場合、1、2の問題は回避されるかもしれない。しかし今度は、顔が取り替えられる有限時間が問題である。
バタ子さんの肩はどうやらとても強い。したがって、アンパンマンの顔が入れ替わる時間も非常に短いと考えられる。
しかしながら明らかに有限時間が消費されるため、アンパンマンの顔と体が別にある状態が発生するわけである。
そもそも生物がその個体として生命機能を維持する際に分離できる可能性があるのだろうか。(もともと生物でないとして生物的行動をするのだから問題は同じである)
顔が入れ替わる間のアンパンマンをうまく説明できない。


…さて、私の矮小な知性ではこの"アンパンマンの本体問題"を解決することは難しいように思われる。

他にも、
4、アンパンマン実は操縦士いる説
5、アンパンマン非科学的存在説
等々考えられるが、どうもしっくりこない。


無論、そもそもアンパンマンなどという題材を論理的科学的に分析しようということ自体、滑稽なのかもしれない。しかし、この問題は、テセウスの船的哲学上の問題、生物無生物、AI等生物学的上の問題、または、無限後退的論理学上の問題などを孕んでいるようにも思える。


ダラダラと一日中実験をしているとこうもキチガイのような話をツラツラと考えてしまう。何事にも息抜きが大切である。

【ネコの陰謀論】

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世界には2種類のおじさんしかいない。シラフでブログを書くおじさんと、お酒を飲んでブログを書くおじさんだ。私が今日後者であることは言うまでもない。

さて、森見登美彦は自身の著書の中で以下のようなことを述べている。(うろ覚え)
"魚を食べるやつはアタマがいいと昔から言われている、だからネコは世界で一番アタマのいい動物だ"(うろうろ覚え)


"もしもこの世界がネコに支配されているとしたら"
など、考えたことがあるだろうか。(サルやゴキブリでは上述のような思考実験を確認している)

私はネコが好きで、帰路で発見すれば1時間でも2時間でも眺めている。私の遺伝子、二重螺旋の中には"ネコはかわいい"というのが書き込まれているのではないかというほどで、というか、ニンゲンにはみなそういう遺伝子があって…。

ニンゲンはネコを飼っていると思い込んでいて、本当はネコに全て支配されているのではないか。政治経済その他諸々のシステム、そして私たちニンゲンそれ自体も全てネコの世界のために作られているのではないか。(生類憐みの精神は歴史にも見受けられる)

全てはネコの安全な生存繁栄の為で、ニンゲンはその道具にすぎないのではないか、、、。

こう反論する方がいるだろう、"犬派だっているし、ネコアレルギーだってある"
しかし何事にも例外というのは存在するので、かような反論があったとしてもこの『ネコの陰謀論』を完全に否定するには全然足りていない。


さて、この悪魔の証明のような暴論に対しては誰もが反駁し、実際のところすぐさま否定されるだろう。机上の空論、お前の暴論だと。
だが、もしネコでなければ、、、話は少し深刻になる。

私自身が何かに支配されていると感じることは日常の中にままあることである。私の感覚やその他私に関することが私以外の何かに決められているようなそんな感覚。それが、教育システムなのか、国家システムなのか、またはもっと哲学的な(絶対精神のような)何かなのかはわからないが。
別にそれが悪いと私は思わない、その支配の中でも幸せでありさえすれば、満足してさえすれば何も否定することはないのだから。

ただ、支配というのは常に世界を制限する。見えるものを見えなくする。(何ども言うがそれが悪いとは言っていない)
けれども、夜空に星が沢山見える方が幸せな気持ちになるのと同様に、世界は広い方が良 い、と私は(勝手に)思っている。いつでも支配はない方が良いと思っている。(ネコに対するそれは例外であるが)

何かに支配されていると気付いた時、それは無知の知への一歩目となるはずだ。

ホラ、今そうして眺めている私の文章に支配されぬよう、気をつけて。


暑さが増してお酒の進む時期、私のように睡眠不足と飲酒過多で倒れぬように。

【夏の車内の言語学】

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茹だるように暑い夏がやってきた。セミが日の出から日暮れまで盛んに自己主張する季節である。

さて、今回は電車に乗っていて感じた違和感とその奥にあるロジックについてまたまた妄想していきたいと思う。

"ドアが閉まりまーす"
というフレーズ、電車通学電車通勤の人は聞くことがあるはずだ。車内のほとんどの人には分かりきっていることをわざわざ教えてくれるアナウンスである。
私は通学の際に毎朝毎夕同じ路線を使うのでこのフレーズは一日に何度も聞くことになる。いつ乗っても同じトーンで同じフレーズなので、マニュアルになっているのだろうと考えられる。

ところが、先日いつもとは違う会社の路線に乗った時、
"ドアを閉めまーす"
車掌さんはそう高らかに宣言して、あの閉まるのと開くのとに恐ろしく速さの違いがある扉をゆっくりと閉めたのだ。

なんだろうこの違和感、、、

別にどっちでもいい、というかどうでもいいことなのだが、いかんせん、そういったどうでもいいことが気になってしまう性分なのだ。(それが私をとても生きにくくしていることは私が一番知っている。)

考えてみると、
"ドアが閉まりまーす"
というのは主語+自動詞のSV関係であるのに対し、
"ドアを閉めまーす"
は主語なし他動詞+目的語の関係を取っている。

私はこういう類の文法論などは本当に門外漢なのだが、仕方ないので少し調べてみることにした。

するとどうやら対照言語学なる領域で議論されるようで、(私は最初比較言語学の方だと思い込んでいたが)、これは文法構造なんかを歴史的経緯は度外視して対照的に研究するもののようだ。

面白いことに、
"ドアが閉まりまーす"
は『主体=客体対立構造』と呼ばれる一方、
"ドアを閉めまーす"
は『主体=客体融合構造』と呼ばれるらしい…(門外漢おじさんが浅薄な知識で解釈しているので間違ってるかも)

また理論の主張では、前者がドアが閉まる電車を俯瞰的に見ているのに対し、後者は電車に乗っている人がドアを閉めているようなイメージで捉えられるということだ。さらに『主体=客体対立構造』は英語的であり、『主体=客体融合構造』は日本語的であるらしい。


個人的には前者の言い方のほうがなんとなく心地よいのだが、いつもそれを聞いているからであろうか。まぁ統計でも取ってみれば、あるいはそこに、日本的感性というのが見えるのではないかなどと妄想したりしている。


車内に響くワンフレーズに対する違和感に、小さなロジックの芽を見つける夏である。盛夏の候、体調には気をつけて。