サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【ハゲオヤジ、または国家について】

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爽やかな季節である。高い空に浮かぶ雲に朝日が反射して、世界がきらきらと輝くような。

 

さて、朝の通学でふと思い出した数学の命題がある。今回はそのパラドキシカルな論法とサイエンス、哲学、そして国家戦略の妄想をツラツラと綴ることにする。

 

"ハゲオヤジのパラドックス"というのをご存知だろうか。数学や論理学に興味のある人にとってはあまりにも有名であるから、今更私が説明するまでもないのだが、カンタンに言うと、

 

『人類は全て、ハゲである』

 

ことを主張する。

以下、証明。

数学的帰納法を用いる。

1、髪の毛が1本しかない人はハゲである。

2、髪の毛がn本の人をハゲだと仮定する。するともちろん、髪の毛がn+1本の人もハゲである。(1本増えたところで波平はハゲ)

1、2より数学的帰納法から、髪の毛が何本あっても人はハゲである。

 

と言うものである。

これを正当に反駁できるだろうか。論破できるだろうか。

 

…電車の向かいに座る人々、ハゲ、ハゲ、少し空いてハゲ、ハゲ、ハゲ…。

そんな世界はあまりに世知辛いので種明かしをしよう。

 

このパラドックスの問題点はズバリ、"曖昧さ"である。(私は過去、この命題に対する解説をいくつか読んできたが、どれも最終的には曖昧さに帰着させていた)

換言すると、"ハゲとは何か"ということが明確でない。髪が0本の人は多分ハゲであるが、たとえフサフサでも10円ハゲはハゲである。

例えばハゲを数学的に定義できればこのパラドックスは回避できる。(つまり髪の毛の本数を具体的に指示する)

ハゲというのは(数学的に見れば)あまりにも"曖昧な"概念である。

 

ヴィトゲンシュタインという哲学者がいる。"語り得ぬことには沈黙せねばならぬ"と言った彼である。私は浪人時代、彼をよく読んだ。彼もまた、"長らく議論されてきた哲学的命題はおよそ全て、言語使用の曖昧さにその本質がある"と語っている。(と私は考えている)

まぁ、哲学的命題が全て言語使用の曖昧さに起因するとは少々早計であるような気もするのだが、彼の主張もある程度は的を射ているような。

 

 

ところで、ノーベル賞発表の時期である。私も専門が物理であることもあり、注目している。

毎年のことであるが、ノーベル賞発表の前後は

 

『この研究、何の役に立つんですか』

 

という質問が飛び交い、

 

『そんなことに血税を使うのか』

 

と怒る人もいる。

多くの科学者や政治家、評論家が"役に立つ"の話をしている。

しかしながら、そもそも"役に立つ"とはどういうことなのだろうか。それは誰が決めるのだろうか…。

マイケルファラデーは電磁誘導の法則について政治家に、"それは何の役に立つか"と聞かれた時、"それはわからないが、20年後あなたは必ず電気に税金をかける"と答えたという。(私は科学者の逸話をほとんど信じていない、が、昔議会議事録でこの議論を見たような気もする)

 

何の役に立つか、、、その質問の本質もまた、"曖昧さ"にあるような気がしている。換言すれば、役に立つか、立たないかなどというのは人によって捉え方が異なるし、それこそメガネを役立てている人とそうでない人のようなものだ。

そのような曖昧な基準で物事を測ることはキケンである。(どんな美人をもハゲと呼ぶことになるのだから)

 

 

それでも国は(どちらかといえば)近視眼的な科学政策を立てる。数年後の成功を目処に予算を組む。果たして"役に立つか"という曖昧な議論で国家戦略を定めて良いものか。

研究者を志す私の憂いも多少なりとは含まれるかもしれないが、それを度外視しても、現状が少しでも良い方向に向くことを祈らずにはいられない。

 

 

深く黙考する秋である。ドビュッシーが似合う夜長である。夕闇の帳は景色を曖昧にする。この曖昧な季節に無理をしすぎることのないように。

 

追伸

どこの誰だかはわからないが、コメントを頂いた。私はコメントの返し方がわからないので、ここで感謝を伝える。

コメントはカリスマブロガーへの糧である。(多分)

【数学的歩き方のススメ(梅田編)】

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永遠と曇天が続く、秋晴れが待ち遠しい時分である。来たる台風が晩夏から尾をひく低い雲を運び去ってくれることを切に願っている。

 

さて、更新がかなり遅くなってしまった。夏期休暇中の私は、ものを書くにはあまりにも余裕がなく、考えるにはあまりにも時間のない生活をしていたので、なかなかコチラの方まで頭が回らなかったのだ。が、また再開である。カリスマブロガーへの道程で座り込んでいたが、またすくっと立ち上がり、メロスのごとく走り出す…つもりである。

 

今回は"最適化"について最近思うことをツラツラと書き連ねる。最初に断っておくが、私はこの分野を深くは学んでいない。したがって、まま、間違いもありうる。諸氏は目を瞑っていただけると幸いである。

 

まずは、サイテキカ…?という方のために。

これは理論体系というよりは、各分野の根底を流れる一つの思考手法である、と私は考えている。物理学、金融工学、分析経済学、情報工学…その他、最適化という概念を含む分野は非常に多岐にわたる。(但し、物理などでは最適化という言葉は用いない、本質的に同じことをしているのみである)

…まぁ、カンタンに言うと、"1番良い方法"は何かを知る。ということである。

 

 

何故そんな難解な学問の話をしているかというと、これがどうやら日常生活にかなり役に立つ(というか私は役に立てている)からだ。

もちろん私は数理アナリストではないし、理論物理学者でも敏腕プログラマーでもない。しかし、私の日常には最適化問題が溢れている。

 

以下、私の最適化問題(この例は大阪に住んでいる人にしかわからないかもしれない、が、大阪に住んでいる人なら、私と同じことを考えたはずだ)

私は梅田をよく利用する。あそこはまるでそうダンジョンのような土地である。特に私が不満なのは、大阪駅からヨドバシに行く時で、一旦地下に降りるか2階に上がるかしか渡る方法がないのだ。(つまり、横断歩道がない)

または、地下鉄東梅田からヨドバシに行く時、大阪駅南側から、先ほど述べたルートを通るか、または一旦阪急百貨店側に渡ってから、ダイコクドラッグの前の横断歩道を渡ってヨドバシに向かうか、という選択に迫られる。(本当にわからない人には何を言っているのかわからないと思うが、わかる人には必ずわかるはずだ)

 

この時、どのルートが最も近いかというと、これはとても難しい。

例えば、(こんな極端な例があるのかと思うが)階段大好きおじさんなら、きっと地下に降りるか、2階に上がる。電車大好きおじさんなら、JR大阪駅から見える列車を少しでも見るために2階に上がるかもしれない。

もっとありそうな例を示そう。

普段私は大阪駅南側から一旦阪急百貨店側に渡る。

しかしもし雨が降っていたら、どうか。この場合は大阪駅を南北に通ってから地下に降りてヨドバシに渡る。

 

何が言いたいのか、というとこれはある意味での最適化問題であるということだ。人の好み(階段大好き電車大好き)やその時の状況(雨が降っている、傘を持っていない)によって、どのルートを通ることが最も利益をもたらしてくれるのかというのが決定されるわけである。

もちろん、距離は短い方がいいが、土砂降りの中を歩くよりは建物の中を歩きたい。もちろん、早く着きたいが、人混みはゴメンだ。などなど、いくつかの要素が相反するとき、その中で最も良い方法を考えること、それが日常の最適化である。

 

少し慣れてくると、各要素を変数にし始める。例えば基本変数を距離としておくと、雨が降る場合は×1.5、屋根があって日差しが防げるなら×0.7というふうに、距離に"重み"をつける。こうすることでどのルートを通ることが最も効率的なのかということを数学的に計算できるのだ。

 

道のりだけではない。複数人がどこで飲み会をやれば合計の移動費が少なくて済むか(ネットワーク問題)、どのように値段を変えれば商売がうまくいくか(動学的最適化)などなど、非常に広範な領域に用いることが可能である。

 

…こんなことを考えながら生きているのか、と冷笑されるかもしれないが、私自身は、歴史的成果に裏打ちされたこの美しい数学的手法を用いて生きていけるということは、とても面白いことだと考えている。または、人生の大切な選択をするときに、ただの直感であるよりは、かような論理に頼る方がまだマシなのではないか、などと思うこともある。

 

 

もう年の瀬も目の前だ。有り余るタスクを最適化しつつ、季節の変わり目に体調を崩さぬように。

 

【アンパンマンの本体はどこか?】

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ここ数日、ブログの更新ができておらず、カリスマブロガーを目指す者としては余りにも怠惰的であると反省している。否、本当はずっと下書きに置いてある文章があるのだが、(これまた荒唐無稽意味不明な疑問についてである)どうやら今の私の手に負える問題でないように思えて思考停止してしまっているのだ。英文学などを専門にしている方に相談したいものだ。(表題【おじいさんの古時計はいつから古いのか】)

さて、今回は上記のような難解なお話(でもない)は置いておいて、アンパンマンについてである。

"アンパンマンの本体はどこか"

ふと浮かんだ疑問はまたノーミソの中を堂々巡りした。私の考えうる可能性は3つ。

1、アンパンそれ自体
2、アンパン以外の部分
3、両方に分割

他には可能性のないことを慎重に確かめて一つずつ検証することにした。

1、アンパンそれ自体説
この場合、"顔が濡れて力が出ない"ことは頷ける。まさしくアンパン男である。
しかし考えてみればアンパンマンのアンパン部分は取り替え可能(というかそれが物語の重要な点)である。
したがって、バイキンマンが悪さをしたという過去の事実を記憶しているアンパンが濡れて、取り替えられてしまえば、過去の記憶は新たなアンパンには引き継がれず、アンパンマンバイキンマンを成敗するモチベーションはなくなってしまうのだ。したがって矛盾が生じる。

2、アンパン以外の部分説
こちらの場合、上記のような"情報の不連続性"は回避できる。
しかしながら、この場合、そもそもアンパンはなんのためにあるのかという根本的な問題にぶち当たり、さらには"顔が濡れて力が出ない"ことを説明できない。
顔がアンパンである必要も、そもそも顔がある必要もなくなってしまい、これまた矛盾的である。

3、両方に分割説
この場合、1、2の問題は回避されるかもしれない。しかし今度は、顔が取り替えられる有限時間が問題である。
バタ子さんの肩はどうやらとても強い。したがって、アンパンマンの顔が入れ替わる時間も非常に短いと考えられる。
しかしながら明らかに有限時間が消費されるため、アンパンマンの顔と体が別にある状態が発生するわけである。
そもそも生物がその個体として生命機能を維持する際に分離できる可能性があるのだろうか。(もともと生物でないとして生物的行動をするのだから問題は同じである)
顔が入れ替わる間のアンパンマンをうまく説明できない。


…さて、私の矮小な知性ではこの"アンパンマンの本体問題"を解決することは難しいように思われる。

他にも、
4、アンパンマン実は操縦士いる説
5、アンパンマン非科学的存在説
等々考えられるが、どうもしっくりこない。


無論、そもそもアンパンマンなどという題材を論理的科学的に分析しようということ自体、滑稽なのかもしれない。しかし、この問題は、テセウスの船的哲学上の問題、生物無生物、AI等生物学的上の問題、または、無限後退的論理学上の問題などを孕んでいるようにも思える。


ダラダラと一日中実験をしているとこうもキチガイのような話をツラツラと考えてしまう。何事にも息抜きが大切である。

【ネコの陰謀論】

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世界には2種類のおじさんしかいない。シラフでブログを書くおじさんと、お酒を飲んでブログを書くおじさんだ。私が今日後者であることは言うまでもない。

さて、森見登美彦は自身の著書の中で以下のようなことを述べている。(うろ覚え)
"魚を食べるやつはアタマがいいと昔から言われている、だからネコは世界で一番アタマのいい動物だ"(うろうろ覚え)


"もしもこの世界がネコに支配されているとしたら"
など、考えたことがあるだろうか。(サルやゴキブリでは上述のような思考実験を確認している)

私はネコが好きで、帰路で発見すれば1時間でも2時間でも眺めている。私の遺伝子、二重螺旋の中には"ネコはかわいい"というのが書き込まれているのではないかというほどで、というか、ニンゲンにはみなそういう遺伝子があって…。

ニンゲンはネコを飼っていると思い込んでいて、本当はネコに全て支配されているのではないか。政治経済その他諸々のシステム、そして私たちニンゲンそれ自体も全てネコの世界のために作られているのではないか。(生類憐みの精神は歴史にも見受けられる)

全てはネコの安全な生存繁栄の為で、ニンゲンはその道具にすぎないのではないか、、、。

こう反論する方がいるだろう、"犬派だっているし、ネコアレルギーだってある"
しかし何事にも例外というのは存在するので、かような反論があったとしてもこの『ネコの陰謀論』を完全に否定するには全然足りていない。


さて、この悪魔の証明のような暴論に対しては誰もが反駁し、実際のところすぐさま否定されるだろう。机上の空論、お前の暴論だと。
だが、もしネコでなければ、、、話は少し深刻になる。

私自身が何かに支配されていると感じることは日常の中にままあることである。私の感覚やその他私に関することが私以外の何かに決められているようなそんな感覚。それが、教育システムなのか、国家システムなのか、またはもっと哲学的な(絶対精神のような)何かなのかはわからないが。
別にそれが悪いと私は思わない、その支配の中でも幸せでありさえすれば、満足してさえすれば何も否定することはないのだから。

ただ、支配というのは常に世界を制限する。見えるものを見えなくする。(何ども言うがそれが悪いとは言っていない)
けれども、夜空に星が沢山見える方が幸せな気持ちになるのと同様に、世界は広い方が良 い、と私は(勝手に)思っている。いつでも支配はない方が良いと思っている。(ネコに対するそれは例外であるが)

何かに支配されていると気付いた時、それは無知の知への一歩目となるはずだ。

ホラ、今そうして眺めている私の文章に支配されぬよう、気をつけて。


暑さが増してお酒の進む時期、私のように睡眠不足と飲酒過多で倒れぬように。

【夏の車内の言語学】

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茹だるように暑い夏がやってきた。セミが日の出から日暮れまで盛んに自己主張する季節である。

さて、今回は電車に乗っていて感じた違和感とその奥にあるロジックについてまたまた妄想していきたいと思う。

"ドアが閉まりまーす"
というフレーズ、電車通学電車通勤の人は聞くことがあるはずだ。車内のほとんどの人には分かりきっていることをわざわざ教えてくれるアナウンスである。
私は通学の際に毎朝毎夕同じ路線を使うのでこのフレーズは一日に何度も聞くことになる。いつ乗っても同じトーンで同じフレーズなので、マニュアルになっているのだろうと考えられる。

ところが、先日いつもとは違う会社の路線に乗った時、
"ドアを閉めまーす"
車掌さんはそう高らかに宣言して、あの閉まるのと開くのとに恐ろしく速さの違いがある扉をゆっくりと閉めたのだ。

なんだろうこの違和感、、、

別にどっちでもいい、というかどうでもいいことなのだが、いかんせん、そういったどうでもいいことが気になってしまう性分なのだ。(それが私をとても生きにくくしていることは私が一番知っている。)

考えてみると、
"ドアが閉まりまーす"
というのは主語+自動詞のSV関係であるのに対し、
"ドアを閉めまーす"
は主語なし他動詞+目的語の関係を取っている。

私はこういう類の文法論などは本当に門外漢なのだが、仕方ないので少し調べてみることにした。

するとどうやら対照言語学なる領域で議論されるようで、(私は最初比較言語学の方だと思い込んでいたが)、これは文法構造なんかを歴史的経緯は度外視して対照的に研究するもののようだ。

面白いことに、
"ドアが閉まりまーす"
は『主体=客体対立構造』と呼ばれる一方、
"ドアを閉めまーす"
は『主体=客体融合構造』と呼ばれるらしい…(門外漢おじさんが浅薄な知識で解釈しているので間違ってるかも)

また理論の主張では、前者がドアが閉まる電車を俯瞰的に見ているのに対し、後者は電車に乗っている人がドアを閉めているようなイメージで捉えられるということだ。さらに『主体=客体対立構造』は英語的であり、『主体=客体融合構造』は日本語的であるらしい。


個人的には前者の言い方のほうがなんとなく心地よいのだが、いつもそれを聞いているからであろうか。まぁ統計でも取ってみれば、あるいはそこに、日本的感性というのが見えるのではないかなどと妄想したりしている。


車内に響くワンフレーズに対する違和感に、小さなロジックの芽を見つける夏である。盛夏の候、体調には気をつけて。

【点字ブロックはなぜ黄色いか?】

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今回は、"点字ブロックはなぜ黄色いか?"という素朴な疑問から、生物進化の神秘に迫るところまで私の妄想力を最大限に生かしていきたいと思う。(といっても、前回のアインシュタインカレーうどんよりはいくらかマトモである。)


さて、まずは上述の疑問に答えよう。点字ブロックが黄色い理由はカンタンで、
"目立つから"
ということらしい。特に法的拘束力はないため、景観保護の観点から黄色以外が使用されることも多い。

では今度は、"黄色いとなぜ目立つのか?"という疑問に至る。(このナンデナンデ精神が友人の少ない理由であることは最近になって気付いたことである。)

この答えも単純明快で、
"道の色に黒が多いから"
ということらしい。黒色に対して黄色というのが人間にとっては目立つらしいのだ。

ではでは、"どうして黒色と黄色が目立つのか?"(はて、もうすぐ終わるので飽きずに続きを読んでほしい。)

これは"警戒色"と呼ばれるコントラストで、人間に対し不快感や危険察知の意味合いがあるらしい。考えてみれば、踏切(踏切については色がJIS規格で定められている)や立ち入り禁止のテープなど黒色と黄色が使われているものは多い。(阪神タイガースが危険かどうかは各個人の見解に委ねる。)

ではではでは、"どうして警戒色は人間を警戒させるのか?"

この問いは先述の問いに比べて解答がいくらか難しい。

というのもそもそも黒色と黄色による作用は生物進化に遡る。多くの動物が保護色で身を守るのに対し、一部の爬虫類や両生類(あの、キモチワルイ蛇やスズメバチなど)は天敵に対し、警戒色による視覚効果と臭気や毒性をセットで擦り込んで身を守るらしい。

しかしながら、別段私が過去に黒黄色の生物に不快な思いをさせられたことも、命を狙われたこともない。どうして私は黒黄色に目を引かれるのか。
んーーー、唸って考えてみても私にはよく分からない。(というか専門の人がいれば聞いてみたい)

なんとなく、"遺伝子に擦り込まれてるのでは"というテキトーな答えに落ち着くのだが、それはつまり私の祖先がハチか踏切かヒョウ柄のおばちゃんにめっちゃ嫌なことをされたというのだろうか。

ここまで書いてこの話にオチがないことに気付いたのだが、もう引っ込みがつかないので宙ぶらりんのまま置いておこうと思う。

点字ブロックの先に見えたのは、私の祖先のトラウマか、もしくはもっと深い何かなのか。

【アインシュタインとカレーうどん】


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ある文献によると、"かのアインシュタインが写真の中で舌を出しているのは、初めてカレーうどんを食べて辛さに驚いたからである"…らしい。
というのはモチロン真っ赤なウソであるが、私はカレーうどんを食べるたびにアインシュタインを彷彿としてならない。

カレーうどんの革命性に想いを馳せたことがあるだろうか。

(以下、うどん世界史)
うどん世界ではまずかけうどんができた。(うどん誕生)
初期はとても太いうどんであったが、のどごしを追及され、いかに細くするかに注力された。(初期うどん技術成長)
そこにお揚げさんや天ぷらや牛肉や卵を乗せる人々が現れた。(第一次うどん成長期)
夏になると、うどんを冷やす人々が出てきて、うどんの世界に新たな時代がやってくる。(冷し-ぶっかけ革命)
ここまでくると人々は"うどん世界は完成した"と思ったであろう。もうこれ以上何も為すことはないと。(うどん世界停滞期)
しかし、ここにきてある男(か女かは知らないが )がなんとうどんにカレーをかけ始めたのだ。これは停滞したうどん世界においては革命的なことであった。具材を乗せたり冷やしたりは思いついても、果たして誰がカレーをかけることを思いつくだろうか!(カレーうどん革命)

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(以上、うどん世界史)

ここまで読まれた方は、カレーうどんの登場にココロオドったであろう。

これがどうしてアインシュタインなのかというと、物理科学の歴史を紐解くとうどん世界のそれと酷似しているからだ。
天体力学より始まる古典力学、また電磁力学といったいわゆる決定論的力学の完成により、物理科学の世界は完成されたと思われていた。
しかし、MM実験による光速度不変性や黒体輻射といった観測的事実からアインシュタインによる相対論、量子論が生まれたのである。つまり、カレーうどんである。(説明はかなり端折ってある)

阿呆のような話であるが、紛れもなく阿呆な話である。しかし、かような思索に取り憑かれて以来、私はアインシュタインを思うことなしにカレーうどんを食せない体になってしまった。


…私は歴史家でなければ風俗学者でも文献学者でもない。しかたがってこの『うどん世界史』は全て完全に作り話である。(声高に口弁を垂れて後で冷たい目で見られても責任は取れない)


一杯のカレーうどんに何百年という科学の歴史を感じる毎日である。