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サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【アンパンマンの本体はどこか?】

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ここ数日、ブログの更新ができておらず、カリスマブロガーを目指す者としては余りにも怠惰的であると反省している。否、本当はずっと下書きに置いてある文章があるのだが、(これまた荒唐無稽意味不明な疑問についてである)どうやら今の私の手に負える問題でないように思えて思考停止してしまっているのだ。英文学などを専門にしている方に相談したいものだ。(表題【おじいさんの古時計はいつから古いのか】)

さて、今回は上記のような難解なお話(でもない)は置いておいて、アンパンマンについてである。

"アンパンマンの本体はどこか"

ふと浮かんだ疑問はまたノーミソの中を堂々巡りした。私の考えうる可能性は3つ。

1、アンパンそれ自体
2、アンパン以外の部分
3、両方に分割

他には可能性のないことを慎重に確かめて一つずつ検証することにした。

1、アンパンそれ自体説
この場合、"顔が濡れて力が出ない"ことは頷ける。まさしくアンパン男である。
しかし考えてみればアンパンマンのアンパン部分は取り替え可能(というかそれが物語の重要な点)である。
したがって、バイキンマンが悪さをしたという過去の事実を記憶しているアンパンが濡れて、取り替えられてしまえば、過去の記憶は新たなアンパンには引き継がれず、アンパンマンバイキンマンを成敗するモチベーションはなくなってしまうのだ。したがって矛盾が生じる。

2、アンパン以外の部分説
こちらの場合、上記のような"情報の不連続性"は回避できる。
しかしながら、この場合、そもそもアンパンはなんのためにあるのかという根本的な問題にぶち当たり、さらには"顔が濡れて力が出ない"ことを説明できない。
顔がアンパンである必要も、そもそも顔がある必要もなくなってしまい、これまた矛盾的である。

3、両方に分割説
この場合、1、2の問題は回避されるかもしれない。しかし今度は、顔が取り替えられる有限時間が問題である。
バタ子さんの肩はどうやらとても強い。したがって、アンパンマンの顔が入れ替わる時間も非常に短いと考えられる。
しかしながら明らかに有限時間が消費されるため、アンパンマンの顔と体が別にある状態が発生するわけである。
そもそも生物がその個体として生命機能を維持する際に分離できる可能性があるのだろうか。(もともと生物でないとして生物的行動をするのだから問題は同じである)
顔が入れ替わる間のアンパンマンをうまく説明できない。


…さて、私の矮小な知性ではこの"アンパンマンの本体問題"を解決することは難しいように思われる。

他にも、
4、アンパンマン実は操縦士いる説
5、アンパンマン非科学的存在説
等々考えられるが、どうもしっくりこない。


無論、そもそもアンパンマンなどという題材を論理的科学的に分析しようということ自体、滑稽なのかもしれない。しかし、この問題は、テセウスの船的哲学上の問題、生物無生物、AI等生物学的上の問題、または、無限後退的論理学上の問題などを孕んでいるようにも思える。


ダラダラと一日中実験をしているとこうもキチガイのような話をツラツラと考えてしまう。何事にも息抜きが大切である。

【ネコの陰謀論】

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世界には2種類のおじさんしかいない。シラフでブログを書くおじさんと、お酒を飲んでブログを書くおじさんだ。私が今日後者であることは言うまでもない。

さて、森見登美彦は自身の著書の中で以下のようなことを述べている。(うろ覚え)
"魚を食べるやつはアタマがいいと昔から言われている、だからネコは世界で一番アタマのいい動物だ"(うろうろ覚え)


"もしもこの世界がネコに支配されているとしたら"
など、考えたことがあるだろうか。(サルやゴキブリでは上述のような思考実験を確認している)

私はネコが好きで、帰路で発見すれば1時間でも2時間でも眺めている。私の遺伝子、二重螺旋の中には"ネコはかわいい"というのが書き込まれているのではないかというほどで、というか、ニンゲンにはみなそういう遺伝子があって…。

ニンゲンはネコを飼っていると思い込んでいて、本当はネコに全て支配されているのではないか。政治経済その他諸々のシステム、そして私たちニンゲンそれ自体も全てネコの世界のために作られているのではないか。(生類憐みの精神は歴史にも見受けられる)

全てはネコの安全な生存繁栄の為で、ニンゲンはその道具にすぎないのではないか、、、。

こう反論する方がいるだろう、"犬派だっているし、ネコアレルギーだってある"
しかし何事にも例外というのは存在するので、かような反論があったとしてもこの『ネコの陰謀論』を完全に否定するには全然足りていない。


さて、この悪魔の証明のような暴論に対しては誰もが反駁し、実際のところすぐさま否定されるだろう。机上の空論、お前の暴論だと。
だが、もしネコでなければ、、、話は少し深刻になる。

私自身が何かに支配されていると感じることは日常の中にままあることである。私の感覚やその他私に関することが私以外の何かに決められているようなそんな感覚。それが、教育システムなのか、国家システムなのか、またはもっと哲学的な(絶対精神のような)何かなのかはわからないが。
別にそれが悪いと私は思わない、その支配の中でも幸せでありさえすれば、満足してさえすれば何も否定することはないのだから。

ただ、支配というのは常に世界を制限する。見えるものを見えなくする。(何ども言うがそれが悪いとは言っていない)
けれども、夜空に星が沢山見える方が幸せな気持ちになるのと同様に、世界は広い方が良 い、と私は(勝手に)思っている。いつでも支配はない方が良いと思っている。(ネコに対するそれは例外であるが)

何かに支配されていると気付いた時、それは無知の知への一歩目となるはずだ。

ホラ、今そうして眺めている私の文章に支配されぬよう、気をつけて。


暑さが増してお酒の進む時期、私のように睡眠不足と飲酒過多で倒れぬように。

【夏の車内の言語学】

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茹だるように暑い夏がやってきた。セミが日の出から日暮れまで盛んに自己主張する季節である。

さて、今回は電車に乗っていて感じた違和感とその奥にあるロジックについてまたまた妄想していきたいと思う。

"ドアが閉まりまーす"
というフレーズ、電車通学電車通勤の人は聞くことがあるはずだ。車内のほとんどの人には分かりきっていることをわざわざ教えてくれるアナウンスである。
私は通学の際に毎朝毎夕同じ路線を使うのでこのフレーズは一日に何度も聞くことになる。いつ乗っても同じトーンで同じフレーズなので、マニュアルになっているのだろうと考えられる。

ところが、先日いつもとは違う会社の路線に乗った時、
"ドアを閉めまーす"
車掌さんはそう高らかに宣言して、あの閉まるのと開くのとに恐ろしく速さの違いがある扉をゆっくりと閉めたのだ。

なんだろうこの違和感、、、

別にどっちでもいい、というかどうでもいいことなのだが、いかんせん、そういったどうでもいいことが気になってしまう性分なのだ。(それが私をとても生きにくくしていることは私が一番知っている。)

考えてみると、
"ドアが閉まりまーす"
というのは主語+自動詞のSV関係であるのに対し、
"ドアを閉めまーす"
は主語なし他動詞+目的語の関係を取っている。

私はこういう類の文法論などは本当に門外漢なのだが、仕方ないので少し調べてみることにした。

するとどうやら対照言語学なる領域で議論されるようで、(私は最初比較言語学の方だと思い込んでいたが)、これは文法構造なんかを歴史的経緯は度外視して対照的に研究するもののようだ。

面白いことに、
"ドアが閉まりまーす"
は『主体=客体対立構造』と呼ばれる一方、
"ドアを閉めまーす"
は『主体=客体融合構造』と呼ばれるらしい…(門外漢おじさんが浅薄な知識で解釈しているので間違ってるかも)

また理論の主張では、前者がドアが閉まる電車を俯瞰的に見ているのに対し、後者は電車に乗っている人がドアを閉めているようなイメージで捉えられるということだ。さらに『主体=客体対立構造』は英語的であり、『主体=客体融合構造』は日本語的であるらしい。


個人的には前者の言い方のほうがなんとなく心地よいのだが、いつもそれを聞いているからであろうか。まぁ統計でも取ってみれば、あるいはそこに、日本的感性というのが見えるのではないかなどと妄想したりしている。


車内に響くワンフレーズに対する違和感に、小さなロジックの芽を見つける夏である。盛夏の候、体調には気をつけて。

【点字ブロックはなぜ黄色いか?】

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今回は、"点字ブロックはなぜ黄色いか?"という素朴な疑問から、生物進化の神秘に迫るところまで私の妄想力を最大限に生かしていきたいと思う。(といっても、前回のアインシュタインカレーうどんよりはいくらかマトモである。)


さて、まずは上述の疑問に答えよう。点字ブロックが黄色い理由はカンタンで、
"目立つから"
ということらしい。特に法的拘束力はないため、景観保護の観点から黄色以外が使用されることも多い。

では今度は、"黄色いとなぜ目立つのか?"という疑問に至る。(このナンデナンデ精神が友人の少ない理由であることは最近になって気付いたことである。)

この答えも単純明快で、
"道の色に黒が多いから"
ということらしい。黒色に対して黄色というのが人間にとっては目立つらしいのだ。

ではでは、"どうして黒色と黄色が目立つのか?"(はて、もうすぐ終わるので飽きずに続きを読んでほしい。)

これは"警戒色"と呼ばれるコントラストで、人間に対し不快感や危険察知の意味合いがあるらしい。考えてみれば、踏切(踏切については色がJIS規格で定められている)や立ち入り禁止のテープなど黒色と黄色が使われているものは多い。(阪神タイガースが危険かどうかは各個人の見解に委ねる。)

ではではでは、"どうして警戒色は人間を警戒させるのか?"

この問いは先述の問いに比べて解答がいくらか難しい。

というのもそもそも黒色と黄色による作用は生物進化に遡る。多くの動物が保護色で身を守るのに対し、一部の爬虫類や両生類(あの、キモチワルイ蛇やスズメバチなど)は天敵に対し、警戒色による視覚効果と臭気や毒性をセットで擦り込んで身を守るらしい。

しかしながら、別段私が過去に黒黄色の生物に不快な思いをさせられたことも、命を狙われたこともない。どうして私は黒黄色に目を引かれるのか。
んーーー、唸って考えてみても私にはよく分からない。(というか専門の人がいれば聞いてみたい)

なんとなく、"遺伝子に擦り込まれてるのでは"というテキトーな答えに落ち着くのだが、それはつまり私の祖先がハチか踏切かヒョウ柄のおばちゃんにめっちゃ嫌なことをされたというのだろうか。

ここまで書いてこの話にオチがないことに気付いたのだが、もう引っ込みがつかないので宙ぶらりんのまま置いておこうと思う。

点字ブロックの先に見えたのは、私の祖先のトラウマか、もしくはもっと深い何かなのか。

【アインシュタインとカレーうどん】


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ある文献によると、"かのアインシュタインが写真の中で舌を出しているのは、初めてカレーうどんを食べて辛さに驚いたからである"…らしい。
というのはモチロン真っ赤なウソであるが、私はカレーうどんを食べるたびにアインシュタインを彷彿としてならない。

カレーうどんの革命性に想いを馳せたことがあるだろうか。

(以下、うどん世界史)
うどん世界ではまずかけうどんができた。(うどん誕生)
初期はとても太いうどんであったが、のどごしを追及され、いかに細くするかに注力された。(初期うどん技術成長)
そこにお揚げさんや天ぷらや牛肉や卵を乗せる人々が現れた。(第一次うどん成長期)
夏になると、うどんを冷やす人々が出てきて、うどんの世界に新たな時代がやってくる。(冷し-ぶっかけ革命)
ここまでくると人々は"うどん世界は完成した"と思ったであろう。もうこれ以上何も為すことはないと。(うどん世界停滞期)
しかし、ここにきてある男(か女かは知らないが )がなんとうどんにカレーをかけ始めたのだ。これは停滞したうどん世界においては革命的なことであった。具材を乗せたり冷やしたりは思いついても、果たして誰がカレーをかけることを思いつくだろうか!(カレーうどん革命)

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(以上、うどん世界史)

ここまで読まれた方は、カレーうどんの登場にココロオドったであろう。

これがどうしてアインシュタインなのかというと、物理科学の歴史を紐解くとうどん世界のそれと酷似しているからだ。
天体力学より始まる古典力学、また電磁力学といったいわゆる決定論的力学の完成により、物理科学の世界は完成されたと思われていた。
しかし、MM実験による光速度不変性や黒体輻射といった観測的事実からアインシュタインによる相対論、量子論が生まれたのである。つまり、カレーうどんである。(説明はかなり端折ってある)

阿呆のような話であるが、紛れもなく阿呆な話である。しかし、かような思索に取り憑かれて以来、私はアインシュタインを思うことなしにカレーうどんを食せない体になってしまった。


…私は歴史家でなければ風俗学者でも文献学者でもない。しかたがってこの『うどん世界史』は全て完全に作り話である。(声高に口弁を垂れて後で冷たい目で見られても責任は取れない)


一杯のカレーうどんに何百年という科学の歴史を感じる毎日である。



【文字を綴ること】

どうしてこのご時世にブログなのか、というご指摘は至極ごもっともである。特段、伝えたいことがあるわけでなし、また伝えようと思うことがあったとしてもブログなんて書く人以外の誰が読むのか。

だが考えてみると、人類が誕生してから今日まで、"どうして綴るのか"に納得できる答えを得たことなどあるのだろうか。"徒然なるままに"ダラダラ書かれたものや、"男もすなる日記といふものを女もしてみむ"とナゾの動機で書かれたものが教科書にのり、多くの人に暗唱されているのが現状である。

しかしながら、何事にも理由をつけたい時代である。「どうして政治資金でウナギ屋にいったんですか?」にたいして、「食いたかった」以外の答えがあるだろうか。そういう類の質問にまで皆が納得のいく言い訳を考えなければならない時代である。はて、私はなぜ綴るのか。

(以下言い訳)
『文字の寿命』は加速し続けている。昔(そんな時代があったのかどうか知らないが)伝書鳩が手紙を届けていた頃、または、飛脚がエッコラエッコラ届けていた頃、人々は届いた文を後生大事に持っていたろう。文字の寿命は人の寿命と同じくらいであった。
少し前の時代、人類がメールなる技術を発明し、文字の寿命は恐ろしく短くなった。読んだメールはゴミ箱にポイッ、である。長生きなやつでも数日といったところであろうか。
そして現在、文字の寿命は数秒である。某青い鳥のSNSやfaceなbookに産み落とされた文字たちは少しでも余所見をすると知らぬ間に死んでいる。

このままではいつか、我々が文字の寿命をゼロにする日が来るのではないか。

いつの時代にも世相の流れに逆行するものがいて、(少なくとも歴史的に見れば)彼らはある一定の役割をなしている。
ならば私も文字の寿命が加速する時代に、長く長く生きる文字を生んでやってもいいのではないかと、そういう考えでこうして長生きな文字たちを生んでいるわけである。

(以上言い訳)

ダラダラと言い訳を綴ったが、何もたいそうなことはない、どーでもいい時代の、どーでもいい場所で、どーでもいい男が、どーでもいいことをツラツラと綴るのみである。
いつかどこか、だれかの暇つぶしになれば幸いである。