サングラス越しの世界

色付きの世界を綴る日々の雑文集

【阪急電車の量子力学】

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師走に入り、寒さがぐっと増してきた。冬という季節に街のイルミネーションが映えるのは、空気の乾燥か、それとももっと精神的な何かのためか。

 

 

最近、モデルを作るというのはどういうことか。という根本的な疑問について考えることがある。私はどうやら元来の妄想家で、"何かが動く"とか、"何かが増える"ような現象を見ると、"あれはどういう方程式に従うのだろうか。"と妄想する。そして時にはその単純な(そして多くの場合現実離れした)モデルを作る。さらにそのうち幸運な場合にはそのモデルを表す数式を解くことができて、なにかしらの結果を得ることができる。

しかし、それを科学、と呼ぶことにいささか疑問を感じることがある。科学において提案されたモデルは常に実際の現象を(たとえその一部であっても)表現していなければならないからだ。

例えばうどんの作用汎関数について考えていても、恋愛の自由エネルギーについて考えていても、拍手のローラン分布について考えていても、それが実験や観測を表現し、さらに非自明な何かを予測していなければならない。それこそが科学なのだろうと考えている。

 

 

さて、難解なお話はこのくらいにしよう。私の妄想が科学だろうがなんだろうか、妄想は自由だ。そしてそれはいつか科学の芽になるかもしれない。今回は"阪急電車に見られる量子力学的現象"についてである。

 

阪急梅田駅は阪急線の終着駅の1つである。電車がホームに滑り込んでくると、ドアは車内の人々を一斉に吐き出す。車内が空っぽになると、今度は反対側のドアから乗客が一気に乗り込んでくる。

乗り込んでくる人々を見ていると、初めの方に入ってくる人は決まって座席の端に座る。さらに両端が埋まると、人々は端ではなく、今度は座席の中央付近に座り始める。

そうして中央が埋まってしまうと、端と中央の間に人が入り、最終的に座席は全て埋まってしまう。

 

これは多くの場合には見られる一般的な現象であるが、ある現象が一般性を持つとき、それは論理的な思考の対象となる。つまりは、どうして人々はそういう座席の取り方をするのか、その背後にはどのような論理(方程式)が潜んでいるのか、というような疑問が湧いてくるわけである。

 

そのような座席の問題を見ると、いつも私は"量子力学における調和振動子の固有エネルギー"を思い出す。量子力学の基本的な教科書には必ず乗っているシンプルなものである。

どんなものかというと、調和振動子系というポテンシャルの中の粒子の持つエネルギーはある飛び飛びの値を取り、1番低いもの、2番目、3番目と数えたいける。というものである。特にスピンという量子力学固有の概念を導入すれば、一番低いエネルギーを持つことができる粒子はたった2つだ。

阪急梅田駅に戻ろう。車内の座席1ブロックには右端と左端がある。そしてその2箇所は人々(粒子)が最も好む座席(準位)である。

例えば1ブロックに6席あれば中央2席のうちどちらかが2番目に好む座席になる。そのあとは中央の両隣のうち端から遠いほうに座る人が現れ、残り空いた2席は同じくらい人気のない席になる。

ここまでくれば私の妄想についていくらか理解していただけると思う。エネルギー準位(座りたさ)は座席の相対的な位置に依存して離散的(1番、2番と数えられて)であり、それらはちょうど2席ずつペアになっている。

 

そういう風に見ると、今日の私のエネルギーはいくらだろう、とか、今日の私のペアはどの人だろうとか、そういう見方もできるわけである。

 

 

…話がここで終わっていれば多くの人にとってそれはすでに思考の対象となったものかもしれない。

しかし、ここで唐突に鴨川に並ぶカップルの話をしてはどうか。

鴨川べりに並ぶカップルは等間隔になるという話があり、私もその現象を見たことがある。車内の座席についての考察とこの鴨川等間隔の間には何か類似点を感じるのは私だけだろうか?そこには実は深い論理が隠れていて、似たような基礎方程式を持つのかもしれないと考えられるのではないだろうか。

 

他方、量子力学調和振動子の問題は固有エネルギーがシンプルであるのに対して、その微分方程式は複雑であり、多くの数学的考察の対象を含んでいる。

 

 

阪急電車の座席に座る人々にどのような基礎方程式があるのかはわからないが、そこにはもしかすると(量子力学のように)深遠な法則が隠れているのかもしれない。

 

 

ちなみに鴨川等間隔の法則については上手いモデルを考えてやろうと思ってからそれなりに月日が経っているが、自分が納得できるものは見つかっていない。

もし何かアイデアがある方がいれば是非教えていただきたい。

 

 

年末年始、体調など崩さぬように。

【カサブタさんと見つめ合う】

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風が少しずつ冷たくなる。空は少しずつ高くなって、夜は少しずつ澄んでいく。あんなに長かった夏はもう遥か遠い過去のことのようで青々としていたキャンパスの木々は赤黄色の厚化粧を纏い、まるで別人のようである。

 

 

また前回の更新から期間が空いてしまった。これにはとても複雑で複合的な原因があるのだけど、時間の浪費以上になにも生まないのでそれについて語ることはしない。ただ、この季節は人を(少なくとも私を)少しだけ陰鬱にする。

 

 

さて、なんだかいろいろなことを考えては下書きに残したり、PCやノートの端や落書き帳にツラツラと書き付けていたので沢山のことを書いたつもりになっていたが(特に恋愛の相転移や横断歩道の最適化問題などは既に発表したつもりになっていたが)、今見たところどうやら私は中国料理以降、無言だったらしい。

(数理的な話をしたと思っていたので)今回はそういう数学や物理からは離れてぼーっと思考実験をしてみた話をしようと思う。なんの脈略もない。オチもなければ含蓄だってない。ただ単に"そう思った"という話だ。

 

 

私の右足の、くるぶしの上あたりに分厚いカサブタがある。最近履き始めた靴のせいで作ったものだ。少し前までは生々しい擦り傷だったが、この程晴れてカサブタさんに昇格した。

カサブタを見つければ"剥がしたい"と思うのは私だけなのだろうか。否、きっとこれは人類統合の精神だろう(無論全ての物事には常に"例外"が存在する)。

ではどうして我々はカサブタを剥がしたいのだろうか?これが今回のテーマである。

 

 

例えば食欲なら、これは生物として生存に不可欠な摂食行動という立派な大義名分がある。睡眠欲だったそうだ。眠らなければ人は等しく死んでしまう。性欲だってその必要性は生物学が保証するところにあるだろう。

じゃあカサブタさんはどうか?私が今こうして右足の分厚いカサブタさんと格闘しているのには一体どんな理由があるのだろうか?

 

理由1、カサブタを剥がせば良いことがある。(積極的効用)

 

理由2、カサブタを剥がさないと不都合がある。(消極的効用)

 

理由1だとするとカサブタを剥がせば何かラッキーなことがあるということになるが、今見る限りカサブタの向こうにあるのは明るい未来などではなくて、固まりきらない血の海である。剥がした瞬間に指先が赤く染まるのは目に見えている。無念。

では理由2はどうか。うーん。色々と調べてみてもカサブタを置いておくことのメリットとカサブタを剥がすことのデメリットは数あれど、カサブタを剥がすことのメリットは特に見当たらない。またまた無念。

…いやいや、まだ諦めない。

 

理由3、カサブタは体の一部ではない。(潔癖説)

 

誰しも体に汗がついているのは不快だ。チャリンコに乗る汚いおっさんが道に吐くタンも不快だし、鼻くそだって目くそだって不快だ。

それらはみんな元々は自分の体の一部だったはずなのに、なんだかすごく不快に感じる。カサブタもその類なのかもしれない。たしかにあの頃自分を守ってくれていたカサブタさんは、今ではもう不快な厄介者になってしまったのだろうか?

 

 

…まてまて、考えてもみれば全ての欲望に合理的な理由があるだろうか?

ヒゲを指で抜きたがる、横断歩道は白いところだけを歩きたがるし、ボタンがあれば押したくなる…世界には"ワケのわからない欲望"が溢れている。本当にワケがわからない。

これはある意味で科学の敗北だ。現象を論理的に紐解くことを一義とし、幾多数多の難問を解決してきた科学はカサブタさんの前では無力なのだ。無精髭にも白線の連続にもバスの停車ボタンにも全く勝ち目がない。我々は猛省すべきかもしれない…。

 

 

しかし他方、ワケのわからない欲望は、時として人を幸せにする。生活を豊かにする。それはともすれば思考停止と揶揄されるかもしれないけれど、カサブタさん退治こそ"人間らしさ"の表象かもしれない。混迷の世界で、ワケのわからない欲望こそ、"ワタシ"の証明かもしれない。

 

 

ほら、こうして私が誰かと手を繋ぎたいと思うことだって理由は全くわからない。それは高邁に発達した科学にとって未解決の難問だ。けれど、そこに明瞭な論理関係なんかなくたって、手を繋げば人はきっと幸せになる。

 

カサブタさんと向き合う5秒間は、科学の未熟さと、我々の存在証明を与えるかもしれない。

【紀行雑記2-1 円卓に踊る】

空港に降り立てば、その国の匂いを感じる。それは変哲のないただの匂いなのだけど、その国の食や暮らし、文化、そして人々を内包している。景色や音で繕っても、"匂い"だけは嘘をつかない。

 

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北京の雑踏に立つ。たくさんの車やバイク、自転車がひっきりなしに行き交い、クラクションは鳴り止まない。週末夜の交差点では信号という概念が消失し、4方向からの車や人々が交差点を埋め尽くす。見上げれば成長を象徴する高層ビルの脇に、未舗装の小道が続くその構図は、ともすればこの国の縮図のようにも思われる。

 

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2週間の滞在の間、夕食は基本的に中華料理である。丸テーブルに座り、大皿を待つ。私の隣にはニュージーランド人が座り、反対には中国人が座る。酢豚、餃子、派金ダック…大半の料理は名前どころか具材すらよくわからない。ただ運ばれてきた名も知らぬ料理たちは我先に胃袋に入らんと、盛んに湯気を立て食欲をそそっている。

 

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中華料理でよく使われる円卓、回転テーブルの発祥は東京目黒らしい、という話を聞く。中国の古くからの伝統であるように映るそれは最近になって日本の中華料理屋から逆輸入された。中華料理店の店主が、大皿が基本の中華料理を大人数でも食べやすく、と考えたのが始まりだ。その後中国に伝えられた回転テーブルは国全土へと広がってゆく。近くて遠い異国文化の中に日本を見た気がした。

 

慣れないものにとって円卓での食事は意外と難しい。それは(少し回りくどく言えば)円卓の物理的回転が食欲という精神的現象に依存するからだ。自分の食欲と、他人への気遣いの間で円卓は回り、料理たちは踊る。

 

 

会って間もない人と円卓を囲めば、その人の個性が見えたりする。それが異国の人であればなおさら深い。その直感は言葉の壁をすり抜けて相手の国や文化、そしてその人自身の奥へと入っていく。

 

 

円卓に踊るのは、我々の精神それ自身かもしれない。

【紀行雑記1-4 ヴェネチアの夕陽】

ケーニヒスベルクの橋問題。オイラーが解決し、グラフ理論の発展につながる一筆書きの問題。ヴェネチアの街はあまりにも有名なこの問題を想起させる。街には細い路地が毛細血管のように広がり、至る所を水路が貫いている。

猫一匹通れるかという路地に立ち、見上げれば赤色の煉瓦造りの先に小さく青い空が見える。

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長方形の広場には人が溢れている。そして人の数と同じくらいのハトが溢れている。サンマルコ広場ヴェネチアのシンボルの一つである。"全ての道がローマに通ず"ように、この入り組んだ迷路のような街の迷い人もいつの間にかこの広場に辿り着く。

鐘の音が鳴る、それに合わせてハトは一斉に飛び上がる。ヴェネチアの、もしくは世界の、何か大切なことを映すような羽ばたきである。

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迷路を彷徨う、少し大きな(といっても車は通れないくらいの)道にはリストランテが軒を連ね、戸口を出たところで沢山の人がワインを飲み、食事を取っている。きっと、外で食事をするのが好きな人種なのだろう。

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細い道に入れば、そこは表通りとは全く異なる風景を見せる。崩れかけのアパートがあり、民家があり、その向こうには水路とゴンドラが見える。人気のないその道の傍らに、小さな花が咲いていた。

 

再びサンマルコ広場に出る。そばの船着場から船に乗り、対岸のサンジョルジョマジョーレ教会を目指す。海抜の低いこの街の景色はまるで川を渡る我々に倒れ込んでくるようである。しかしそれは圧迫というよりは抱擁であり、緊張というよりは安堵に似ている。

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教会はやはり、ひんやりと冷たい。聖堂を抜け、教会に立つ塔を登る。ヴェネチアを一望できる塔。手前に聖堂の丸い屋根が見え、奥にヴェネチアの街が見える。そこから鳥瞰する街並は、驚くべき端正さと信じがたい繊細さを持っており、それが現実であることすら疑ってしまう。水路を行き交うゴンドラの白が小さく光っている。

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街並のエントロピー(乱雑さ)増加という、統計物理学の研究がある。街は時間発展的に乱雑に、まるで生き物のように発達する。私が今踏みしめる網状の迷路は、この街がとても長い間そこにあって、人々とともに生きていることを暗示する。複雑性の中には常に歴史があり、乱雑さの中には常に息づかいがある。

 

 

ヴェネチアを出る船から、夕陽が見えた。その赤さが海抜の低さによるものなのか、街と空のコントラストによるものなのかは判然としないが、とにかくその夕陽は赤く、また見渡す限りの全てを赤く染めていた。

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イタリアの旅も終りを迎えようとしている。

 眼に映る太陽はそのうち日本の空に昇る。私たちはそういう連続性の中に生きている。

 

 

【紀行雑記1-3 小さな国の大きな祈り】

白い一本の線で仕切られた国境を越える。そこに壁はなく、事務的な手続きすらない。

 

私は今、世界一小さな国、バチカンの広場に立っている。敷き詰められた石畳は朝日を反射し、荘厳な鐘の音は15分ごとに時を刻む。名だたる殉教者たちが楕円型の広場を見下ろし、人々は静かに祈りを捧げる。

 

サン・ピエトロ広場。

 

凪のような、風のない時間がそこにはあり、常に清潔に保たれた広場はまるで何百年もの間そこだけ世界から切り取られたような姿をしている。

 

厳重な手荷物チェックを終え、サンピエトロ大聖堂に入る。キリストの総本山。ローマ教皇の住処。高さ50メートルほどの入り口の上にはイエスキリストの像がたっており、眼下を臨んでいる。それはまるで大聖堂を訪れる人々の人生を見透かすようであり、または、苦悩と悔恨を赦すようである。

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入り口を入ると中はひんやりと冷たい。それが物理的な要因からくるものなのか、もしくは精神的な感覚に依存するものなのか、私にはわからないが、すくなくともその"冷たさ"の中に人々の平穏が隠れていることは確かだろう。静寂の中で朝のミサが行われる。灯された蝋燭の火が風のない聖堂に小さく揺れる。

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長い間、本当に長い間、そこで祈りが捧げられてきた。世界一小さな独立国家の、世界一大きな教会で。世界の広さに比べれば人々の祈りはあまりにも小さい。それでも聖堂は存続し、宗教は止むことがない。

その祈りの場にあって、どうして手荷物検査が必要なのか、どうして厳重な警備が必要なのか、そういう類の疑問は、もしかすると実はもっと大きな世界の疑問であり、同時にそれは人々が長きにわたって抱き続ける疑問なのかもしれない。

 

 

 薄暗い大聖堂の向こうに陽に照らされた石畳が小さく見える。出口にはスイスからの衛兵が立っている。彼が守るのは、きっと目には捉えられない何かなのだろう。

再び広場に立てば、祈りという行為が、論理や合理を超越したところにあることを身を以て実感する。

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広場に心地よい風が吹き、教会の鐘が鳴った。

【紀行雑記1-2 ネイプルスイエロー、色と音の哲学】

"太陽の道"と呼ばれるその道は第二次大戦下でムッソリーニがドイツのアウトバーンを真似て作らせたという話を聞く。その長い長い道を左側に太陽を睨みながらひた走る。空気は乾燥し、大地は緩やかな勾配を作りながらどこまでも伸びている。遠くの山嶺には教会の屋根が見え、朝日をいっぱいに浴びている。

 

ローマの外れからナポリを目指してひたすら南下する。山々は少しずつ平地へと変わり、平地は少しずつ海の香りを讃える。

ナポリの新市街の高層ビル群が見え、対照的な旧市街の歴史建築が見える。建築様式や材質の違いはその街が永い間、人と共に生き、人に愛され続けていることを物語る。また振り放け見ればヴェスヴィオ火山が見え、その下に埋もれたポンペイの街を彷彿とする爆発の後が見える。ナポリの乾いた潮風は何千年もの営みを常に眺め続けてきたのだろうか。

 

 

カプリ島ナポリから船で50分ほどの沖合にあるひょうたん型の小さな島である。

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船を降りるとたくさんの"色"が私を出迎えた。

 いくつもの真っ白なボートがエメラルドグリーンの海面に浮かび、浅瀬の波に揺れる。岸壁に立つ木々はいよいよ青く、海を臨む家々は赤や緑で、晴天に映える。

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ネイプルスイエロー。

 

ナポリの伝統色として知られるその色は、強く目を引く黄色である。

 

街を歩けば"音"を聴く。

海に面した広い道には溢れるほどの陽気な会話が飛び交い、側のリストランテではフォークとナイフが踊る。風は心地よく、道行く人々は口笛や鼻歌を歌う。

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哲学者ヴィトゲンシュタインは自著、論理哲学論考の中で"色空間"について述べている。空間はいたるところ"色"に支配され、色のない空間はない。またそれは"音"についても同様である。

刺激的な色と軽やかな音は空間の中で連続性と調和を保ちつつ巧妙に絡み合い、この島を形作っている。その曼荼羅のような空間の中で人々は生き、それ自体すら色音空間の一端を担うのだろうと想像される。この小さな島は、色と音の哲学の上に成り立つのかもしれない。

 

 

一瞬訪れた凪のあと、少し強い風がどこかへ色と音を運んでいった。

 

 

 

【紀行雑記1-1 黒海に浮遊する脳】

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私は紀行文というジャンルをほとんど読んだことがない。土佐日記を紀行文というのなら目に触れたことくらいはあるだろうか。だから私は紀行文というものがどうして存在し、どういう意味を持っているのかということについて、ほとんど何も知らないし、また考えたこともなかった。

 

紀行文は例えば排泄のようなものかもしれない。

 

旅の中でヒトは何かを吸収している。そして吸収には常に排泄がつきものなのだ。知らない街で見た景色、音、匂い、そうしたものを吸収した後に、ふわりと残る質感、それこそ紀行文の存在意義なのだとぼんやり想像したりする。

 

 

さて、私は今、ローマの外れにあるホテルの一室でこの端書を認めている。日本からイタリアまで約14時間のフライトで身体はクタクタのはずなのに時差ボケのためか睡魔はまだやってこない。

大阪から一旦ソウルへ入りトランジットしてイタリアローマへのフライトである。飛行機は小さくも意味ありげな蛇行を繰り返しながらほとんど最短経路をたどって目的地を目指した。機内では英語、イタリア語、韓国語、そして少しの日本語が飛び交い、まるで全ての人種を詰め込んだノアの箱舟のように、高度1000メートルを進む。

 

座席の前には乗客一人一人に割り当てられたモニターがあって、映画やドラマ、音楽やゲームを楽しめるようになっている。

その中に機外カメラという項目がある。それは機体前方と下方に取り付けられた機外カメラの映像をリアルタイムで見ることができるというものだ。

私は長いフライトの中でそのカメラ映像をぼーっと眺めていた。ほとんどの時間、下方には雲海が広がり、前方の映像はほとんど真っ白であったが、ちょうど黒海を抜けてイスタンブールの北部を過ぎるあたりから雲が晴れ、海が見えた。

広大な海を眺めているとどんどんと吸い込まれるような感覚に陥り、海の上でポツンと1人浮いているような気持ちになる。そしてそれは孤独とは全く別物の、なにか高揚感に似た感情を付随し、"小さなワタシと大きなチキュウ"という純然たる真実を論理を超越した方法でもって心に叩きつけてくるようであった。

 

飛行機はさらに進み、やがてイタリア中部の農村地帯が見えてきた。機体は少しずつ高度を落としながら来たる終着地へと突き進む。

私は映像を眺めながら、眼下に広がる農村の小さな家に住む人々を思う。もちろん、私の思いとは裏腹に彼らは今日も全く変わらぬ日常を繰り返している。その事実は、ともすればとても奇妙である。かたや私はまだ見ぬ世界を心待ちに上空を飛んでいるし、かたや彼らはいつもと変わらぬ飛行機の音を聞いて、いつもと変わらぬ生活を送る。それらはたった数百メートルの距離にあるにもかかわらず一瞬たりとも交わることはない。おそらくは一生交わることのない人々に、私は思い馳せるのだ。

 

着陸の時が近づく。まっすぐ伸びた滑走路が見える。それは何かのメタファーかもしれない。機体は滑り込むように、そして至極当たり前のように硬いアスファルトに着地する。長い空の旅の終わりを知らせる音がする。

 

 

私の脳はまだ黒海の上空あたりに浮遊しているように思う。または黒海を抜けた農村の小屋の中でうずくまっているかもしれない。いずれにせよ、どこか知らないところをプカプカと浮いている。

どこかに浮いたままの脳を回収して、ちゃんと首の上に据えてやるために、人は紀行文を書くのかもしれない。

 

 

旅は始まったばかりである。どこかに脳を置き忘れたりしないように。